今日は「父北村雨垂とその作品(160)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(160)
原稿日記「一葉」から(その43)
難解性の問題について(6)(1月21日に続く)
川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表
(三)
川村二郎詩が讀賣新聞の海外文学でドイツのパウル・ツエエランの第五詩集について〈抽象的な
言葉の中へその経験を深化して、一切の具体性を失うまでに希薄化したことばの上に、ことばその
ものさえ否定する世界の限りない残酷さをうつし出そうとするその様な詩の方法が最近出た第五詩
集「言葉の転回」ではひときわ強められている。ここに収められた詩はすべて非常に不規則な自由
律だが、詩語が中途でたちきられたり、二個以上のことばが一語に合成されたり、類似の母音や子
音が交換されたり一見遊戯的な実験のようにもみえかねない。言葉の意味を全く無視した、いわゆ
る「具体詩」の試みもドイツではさかんなのである。しかしそのグループの作品とこの詩集との相
違は、ここで文字どおり解体寸前となった言語が、それにもかかわらず、なおも世界の意味を問う
てやまない。そのはげしい衝迫にある。世界の苛烈な現実は通常の言語ではとらえられない。それ
をあえてとらえようとする言語は必然的に解体の危機にさらされる。この危機の認識に立って現実
のあとを追う詩人の呼吸が感じとられる〉と紹介していた。入沢康夫氏の〈言葉の不実を告発、眞
実をとらえ直す〉の中の言葉はすべで松本芳味氏がジャーナル誌で引用されているので御承知の方
も多いことと考えるが、こうした切羽詰まった手段をとらなければ表現出来ない作者が自己の作品
として満足出来ないということは何か。私はこれら詩人がとらえた直観が、その詩人がもっている
ことばでは表現することの出来ない〈なんとも云いようのない意味〉あるいは〈現在ある言葉にな
い〉意味をとらえるところにあると考えられる。そのように未だ表現することばがない意味が、こ
うした詩人によって表現を課せられている。ここに〈言葉を破壊する〉ことばの操作がおこなわれ
る素因があると考えている。こうしたイデアの世界を表現するとき禅語にも似た ― ときに野狐
禅のようなものも考えられるが ― 表現となるものと考えられる。ここに具象的なことばを抽象
的な意味に、とらえようとする、ことばの持つ意味、そのことが代表するところの意味をも破壊す
る操作が余儀なくされると考えられる。作家はその作品された時点に於て作家としての生命を賭け
た筈である。そしてその作品の直観をその作者の能うかぎりの技術によって、それに近づこうと努
力して表現されたものと考えるべきであらう。こうして作者の直観が具現されたもの。それを鑑賞
者は当然その人の直観によってその作品をうけとる以外にはない筈である。しかし直観というもの
は、個々の人々によって差がある。個性にも差があることにもよる。体験の豊かなもの、またその
逆もある。風土によるもの等々その他もろもろのことによる蓄積された直観力が鑑賞者として作品
と対峙する。そこに作品をはさんで作者と鑑賞者の直観力の対峙がある。作者は作品によって鑑賞
者を対決する。つまり作者は作品を鑑賞者との間賭けているのである。そこで作者は当然の権利の
ように鑑賞者を選ぶ態度をとる。おそらく現在の作家はそういた意欲をもって作品しているものと
私は考えている。すくなくとも私はこうした場で作品している。
(続く)