なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(162)

 今日は「父北村雨垂とその作品(162)」を掲載します。

  父北村雨垂とその作品(162)
  
  原稿日記「一葉」から(その45)

  難解性の問題について(8)(1月25日に続く) 
 
               川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表

 劣等生呵々ときらめくは陽掌
 
 狂ひ日傘の蝶の屍の原赤児を摘みに
 
 梟木堆めば子を連れに行く馬がくる
 
 雪が空に積り人間は崇高に歪められ
 
 肋骨がない零のサイン振る白い掌
 
 雲母の凾を廻り父の風景の辞典をめくる
 
 マクベスの妻よ妻は黒い掌なりしを
 
 指人形の静寂を吹かせ夫がいない
 
 笛の歸帆の鱗噴きいづ姙りや
 
 おとなえば群鳩が翔ち俄かな枯野

 とりあえず以上十句を拾ってみたが、これらの作品で、まづ気がつくことはその構成とその内容が他の

作家の作品との間に断絶があるということである。つまり作品する作者の態度がすでに他の作家と異質な

ものがある。一般川柳のような短詩の性格としては語ることが常態であるが、眞澄のこれらの作品は、語

りつつ同時に問う姿勢をもっている。対話することを求めるというような表現の姿勢ともとれる。これ等

の作品はそのいづれもがそうした姿勢によって眞実 ―もちろん詩に於ける― を求めて共感者と対話す

ることを内臓している。
                           (以上前出)

 劣等児から無碍の生態を呵呵と無機的な音感を抽出して非情の陽光を有情にとらえ、さうした矛盾の複

合によって調和を語り、同時に鑑賞者にそれが何かと問うている。有情と非情の有情のこの二つの矛盾が

からみあう次元の抽象衝動を待っている。狂い日傘は女性の宿命的な希ひが拒否された否定的な運命の肯

定を強いられる。強烈なまでの非情を暴露することを求め梟木は地底深く沈みゆく抽象の無言を抽象をも

たぬ生きものの体温に有情をとらえ、その合意から心象の動きを探らうとしている。雪が空に積もるとい

う幻想から人間対崇高の歪みを摘発しようとしたアイロニーである ―ここでいういアイロニーは西脇順

三郎氏の説くところの意味で― ない肋骨の幻想が描く現実から虚無を摘発し、雲母の凾というイメージ

によって薄いそのベールを透かして父の風景と言葉を破壊して重量的な辞書の生命的な動と対照して不思

議な残影を描き、マクベスというシェークスピアの古典的な悲劇から現実的なモラウの抽出をする冷やか

なささやき、指人形の沈黙を盾とする空しさの情景、笛の帰帆の聴く清澄なおどけ。群鳩の翔つ動揺のむ

なしい風景。この様にしてみな鑑賞者に語りかけて、しかもそのいづれの作品も対者に対話を求めるもの

を薄くあるいは濃くことばのひだに露わに臓している。殊に西脇氏が考えかつ駆使している超現実的な手

法 ―作者がそれを意識しているか否かは問うころでない― に近いものによって構成されている。現代

の短詩では主語とならざるものを主語に、述語にあらざるものを述語としてつかうことも考えて良いであ

らう。ことばにあらざるものを主語とし或は述語とする場合も考えてよいに違いない。主観そのものを客

観することも試みてよい筈である。ノエシスノエマを分裂する矛盾もあえて試みることもよいであら

う。現代の詩はあえてそうした矛盾を試みることも要望されているに違いない。川柳や俳句もまた決して

例外ではあり得ないであらう。殊に抽象的作品に於ては抽象的言語 ―もともと言語とは抽象的なもので

あるがそれを超えた― 複数による言語が言語自らを意味するそうした意味を擔うところの意味の情感の

メロディイをもつもの或はメロディのみを主体として作品としての言葉の意味をも無視する方途も考えて

よいであらう。詩人の一部の人達はすでにさうしたことを試みている様である。例えば〈嬉しい〉とか

〈悲しい〉とかいうことばは純粋な抽象語であるが、単にこれを単語としてみるときは〈嬉しい〉という

意味のサインであり、〈悲しい〉もまた悲しいという意味のサインに過ぎない。唯このサインが嬉しいと

か悲しいということを代表しているということであって、この意味もまた文字によって視覚に、声によっ

て聴覚へと物理的に受けとることによって、ひとつの客体とみることが出来る。現代詩人の一部の人達

が、ことばをも破壊して作品する根據のひとつのゆき方として、こうした意味があるのではないかと考え

られないであらうか。くどいようであるが複数の抽象語の媒介によってそれを新たに客体語的なものとし

てとらえて鑑賞することにより、新たに感情を生起させる。抽象語と抽象語との対話 ―この場合は一個

の作品の内に於ける対話― によって二次元的抽象が生まれる。いくつかの感情を表示したサインとサイ

ンの交合が次の感情を姙む。或は生起させる。そうしたものが積まれ、積まれて一つのピラミッドの様な

安定した図式を構成する。そうした表現の可能性も考えられる。否、すでに現代詩では試みられている筈

である。こうした作品には禅語の公案に似たところがあるかも知れない。またその解明は垂示の様に、な

るかも知れない。いきおい解明ももた難解なものとなる可能性も生まれてくる。而しどこか禅語と異なる

ところがある筈である。そうしたことも一つの重要な試みであることも考へられる。

 もちろん眞澄作品が公案に似ているというのではない。全くそれとは別個の美しい詩であることを特に

改めて断言しておこう。人間がポリス的生きものであるということは、他のいきものと異なって、知性と

ことばがあるということである。その知性と言語があって始めて文化が成り立つ。文化とは、この知性が

言語の擁護によって発達する人間の特権である。さきに述べた様に山内博士は言語と意味との関係をいわ

ゆるライプニッツの創見によるスポッジオ的関係として説かれた。まことにその通りであるが、その言語

が擔うところの意味は単なる辞典的意味とは異なる多くの〈或るもの〉をも擔っている筈であり、博士は

決してそうした辞典的な意味として考えてはおられない。それを辞典的意味と解することは非常な誤ちを

犯すことになる。まして詩に於いては、その誤ちは破壊的となる。言語はたしかに普遍的な視野に於いて

の意味であることに間違いはないが、その意味は決して固定的なものではなく、むしろ流動的であって、

その時その場の環境によっても同じ言語の意味が変わることのある事実は、あえてここに擧げることもな

からうと思う。すべての詩に於いて ―そのモデルとなったイメージ或はモデルと作品とは全く全く異な

るものであることもすでにオルテガの言葉が証言した。と同時に現代作品の在り方についても岩山、山

本、木田の三氏等のことばを借用して解明し、言語については長谷川、山内の両氏の理論を借用させてい

ただいた。

 現代作品がその作品に駆使する言葉の構成には、従来の一般につかわれている描写型のほかに告白型、

独白型、対話型とでもいうような形態のものが内包されている様に考えられる。またそれが目立って来た

ようである。それは描写を装う告白型であったり、独白や対話を混入したりということを巧妙に内臓せし

めて緻密な表現を考えているやうである。しかもそれを〈それらしくみえぬ様に〉入ることによって、言

葉をも破壊することおをもさうしたひとつの技法として考えているのではなからうか。私はそうした作家

の表現したと考えられる作品から前述の志向を匂ひやひびきとして受けとっているのであるが、これは私

の独善的な考えであるかも知れない。ともかく斯うしたことをひとつの課題として残し、この稿を終わり

たいと思う。

                      1980年(昭和55年)1月28日完了