なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(156)

 
 今日は「父北村雨垂とその作品(156)」を掲載します。

 昨日私は午後に、東京地方裁判所に私の裁判支援会事務局長のKさんと、8日までに集まった「公正判決

を求める要請書」を届けにいきました。民事第31部の書記官の方が受け取ってくれました。個人・団体の

要請書が個人83筆、団体が12筆、連名の要請書では802筆になりました。次回は1月31日に裁判所

に持っていく予定です。3回目は2月6日に予定しています。要請書の署名の最終〆切は1月31日です。なお

一層のご協力をよろしくお願いいたします。


             父北村雨垂とその作品(156)
  
  原稿日記「一葉」から(その39)

  難解性の問題について(2)(1月8日に続く) 
 
             川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表

 駒澤大学の長谷川弘氏は沈黙と言語と題して「一定の限度の精神的な距離をたもって人間と人間が対峙

するとき、そこにはじめて言語的関係が成立する。その距離の内側では言語よりは濃密な沈黙が生まれ、

その外側では言語をも拒否するつめたい沈黙が支配する。言語的な人間関係は全く異質な、ふたつの沈黙

にはさまれて存在する。言語関係の内側にもっと親密な沈黙の関係を想定せざるをえないのは言語に本質

的につきまとう一般性抽象性のために、言語表現が経験のこまかな襞のひとつに十分密着できるほど個別

的個性的ではあり得ないからである。言語を通じて表現されるものが本質的に一般的抽象的性格をもつこ

とは、ヘーゲルの如く言語によってすくいとれないような個別的感覚のうちに眞理はなく眞理は言語のう

ちに現象する普遍的なものでなければならないとして、言語の一般性を評価するにせよ、或はベルグソン

の如く意識の根本的な本質をなす時間的な持續は抽象的空間的言語記号を通じては把握できず、それをと

らえるには言語を手段とする科学の立場を去って純粋な直感に依拠する形而上学に赴かねばならないとし

て、言語の一般性を否定するにせよ、ひとしく前提的な事実としてみとめられていることと云ってよい。

言語そのものは、どんなに個別的具体的に使用されているようにみえても、かならず一般的抽象的な面を

ふくんでいる」と説かれている。つまり一般に使用されている言語は抽象的概念的な意味を擔うというこ

とであり、その限界を沈黙によって支えられていると考えられる。また言語が持つところの意味は、その

民族、国家と直接つながる意味が裏うちされている ― ショーペンハウエルは彼の説いた文学の中で、

東西各国の言語を対照して、このことにふれている ― それはその国家や民族歴史的環境やそれによっ

て来たったところの習性等、或は宗教的なものからも来ているであらうが、そこに言語のもつ不可思議

な、いわば言語以前の意味を擔っている。その言語が確然と擔っている意味の周辺を暈の様に濃く、また

薄く包接した言語以前の意味が漂うている。それは数学的幾何学的な確然たるもののみではなく、いつで

でも暈の中に極端な云い方をすれば、不確定性を擔う確定的な意味を擔っているのであらう。しかも文学

はそうした言語環境を生命として創造されるものと考えられる。殊に詩に於て、その構成が一般文法を無

視した技法や、むしろ言葉そのものを破壊する非文法的表現さえとる領域に於ては、言語そのものが持つ

理解にすでに意味の階程のような萌芽があるように考えられる。山内得立博士はその著『意味の形而上

学』に於て、意味の階型性をとらえ、第一階型を信号、第二を記号、第三を象徴であるとし言語や文学も

亦ひとつの信号と断じスコラ哲学のスッポジオを捉え、それを単に「あるものでなくして、常に他に対し

て立つところのもの、そして他に対してその代りに置かれ、それを代表するもの」と解し、信号、記号、

象徴をこのスッポジオの仮置と代置と代表に対当させ、信号の性格を條件反射、記号をそれが一つの事物

に代えておかれたものである限り仮説であり代置であるとし、その仲介項としての想念が伏在していると

いい、象徴は仮置でも代置でもなく、代表的なもの、そのなにものかを自ら表現するものと考え、信号の

世界に於ては機械的、直線的、反射的であり、或は單回路的であり、記号への展開を可能ならしめるもの

は、暗号であるが、それを、反応が個有な作用となるとして、反応によって想念を挟んで著しく屈折的な

作用をするとし、象徴に対しては反映という語を対当させて論じ、これを意味の体系であると考えてい

る。斯くして言語を恰も論理と意味との中間にあって、ロゴス的な役割をなすものと言葉を事物の意味と

解して表現を可能にすることは存在をではなく意味であるとしている。而しこの言語が表現するところの

意味についてその理解 ― ここは認識と言った方がよいかも知れぬ ― つまり感受する側にも個々に

於て差があり、またさうした層があり、或は階型若くは階程があるように私は考えているが、博士はそれ

には触れていられなかった。また博士は代表と表現の項に於て、詩のことに触れ「詩人のみるところは言

葉以前の世界である。詩人は言葉によって見るのではなく言葉なしに直観するのである。詩人の思うとこ

ろは言語によってではなく、それなしに直接に感ぜられたものであるにちがいない。言葉はかえって、そ

のみるものを歪め、その感ずるところを正しく表わし得ないのではないか。しかし詩人といえども言葉を

用いる。詩は言葉による芸術である。言語が如何に事物から遠いものであるにせよ、またそれらの間に如

何に大きな裂け目があるにしても、事象をとらえ思念を表わし、情緒を歌うためには言葉を用ひ又はそれ

に依らざるを得ない。言葉なき詩は歌なき彫像に等しい ―詩人は単に歌うのではなく却って事物を歌

う。事物の事物たる所以のものを歌う言語は事物にとって隠されたる根據であり、誇り高き沈黙である」

と語って居られる。それだけに言葉を受納する側の階型的ないし階程的な層を分析して、言葉の本質をな

す意味の認識について深奥な論理を展開していただきたいと希うものである。まことに粗雑なものとなっ

て甚だ恐縮の至りだが、詩作品ことに短詩型の川柳作品に於ては、抒情作品は別として、思想詩的なもの

や、超現実的作品に於いは、難解性の問題は今後も到底消えるものではなささうであり、むしろ宿命的な

ものであるように考えられる。

                                      (続く)