なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(158)

 今日は、「父北村雨垂とその作品(1589」を掲載します。


               父北村雨垂とその作品(158)
  

  原稿日記「一葉」から(その41


  難解性の問題について(4)(1月14日に続く) 

             川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表

  されこの辺で一応ガセットの言葉を打ち切って神戸大学教授の岩山三郎氏の著『美の哲学』から抽き

出して参考にしてみようとおもう。岩山氏は批評価値の発生根據についての中で〈わからない〉といふ言

葉の意味でピカソを捉えて例として次のように言っている。

 〈ピカソをかついだ20世紀初期の自由主義コミュニストたちを胚胎させたインテリの階層の社会的基

盤は、シュールレアリズムをかつぎ始めるころには一層急進的で過激であった。認識闘争主義的=過激=

修正主義的・プチブル急進主義的自由コミュニズムであった。即ちフランス型トロッキズムであって、解

りやすく云えば法華の太鼓のように、やかましく騒ぎたてることで革命的な直接的破壊行為などに訴えな

いで ―自由なコミュニズムの世界と云うー 超現実の理想世界へ向けて社会の尻をたたいて行こうと云

う前衛的精神である。こう云う社会的イデオロギーの顧慮はシュールレアリズムの芸術を眞に“わかる”

ためには ―フロイドの精神分析が与えた影響を考えることよりもはるかに― 重要な意味を持ってい

る。そして吾が国で云えば最近の若い世代には、こうしたイデオロギーに共鳴できるようなものが生育し

ているらしく、そのことを安保闘の全学連主流派の存在が証明していたと言えよう。一般的に云えば吾が

国もやうやくシュールレアリズムがわかる時代に到達したのである。“わからない”と云う言葉の意味が

問題であった。全学連主流派の気持ちが解らなければシュールレアリズムも多分解らないであらう。即ち

急進プチブルコミュニズムにも共鳴できるというような疎外の現実の中に身をおいていないのである。

ピカソの女の顔のデフォルメがわからないというのは疎外の現実を乗り越えるには人間をのこぎり鮫のよ

うに否定することこそ却て生の肯定に通じるという点での共鳴があまりないということである〉と、シュ

ール発生の素因をつきとめ、そうしたこころの構えがなくては ―わからない― であらうと云ひ成田重

郎氏訳のルナール日記から。

 ヴォラール ―或る日アヴニユ・ド・ロベラ通りの〈入浴の女〉をみました。その前に男が一人居まし

たが、自分の栂指でもってあてずっぽうに空中に何か描いていました。その人は画家に違いありません。

というのは私が立ちどまると、彼がこう獨語しているのを聞きましたから(あのような女のトルソは〈山

上の垂訓〉のように重要だ)

 ルノワールも ―その人は批評家に違いない。画家なら決してそんな風に話さない。

 ヴォラール ―ちょうどその時、大工が一人やって来ました。彼もやはり裸体の前にたち止まって叫び

ました。(何ということだ ―あんな〈あまっちょ〉なんか寝たくもありやしないよ!)

 ルノアール ―その大工が正しい。芸術は冗談ごとではない。

 以上を例として批評価値と享受価値に多かれ少なかれ〈矛盾〉を内包していることを指摘している。し

かもここでのルノアールの言葉は〈芸術の魂は〉あくまで享受の方にこそ存在するという意見を語ってい

るもののようだと言ひ、大工は ―もちろんドガを理解できなかったが― 大工の魂の方が批評家らしい

男のそれよりも芸術としてドガ自身の魂に近いと語ているようだと語ている。

 ついでにトルソと云う言葉が出たので、一寸横道にそれるが、私の川柳や俳句という短詩についての考

えを申し添えると、丁度川柳や俳句が彫刻のトルソによく似た性格のもののように考えられるがどうだろ

う。この手や足や頭部を欠い作品が、その躰幹、胴のみによって表現される文学、これが川柳や俳句に

〈言葉の空間〉が絶対に必要な、それなくしては詩として成り立つことの不可能に近い性格を擔うところ

のものであり、他の文学の作品とは比較にならなぬ程の創作上の苦しさがると同時に難解も擔う宿命をも

つものではないかと考えている。作品衝動はその作家の個々の性格によって違うであらうと考えられる。

深夜突然とそうした衝動からペンを握るという場合をよく聞かされることがある。私の場合は意気のあっ

た友人と酒を酌み、文学のはなしに、或は批評などに興じたあと、やがて弧となり、やや酔いがさめかか

ったような状態の場合によくそうした衝動に駆りたてられることが多く、私の作品の大部分はさうした刻

(とき)に生まれたものである。もちろんそのとき創られた〈そのまま〉ではなくその後にいく度か推敲す

ることではあるが、またそうした状態のときの瞳は例えばビルの窓のような高い所で暗夜に市内の大通り

を走る自動車のヘッドライトが無数に並ぶ光景を、その生きもののような、それも巨大な蛇の目と頭だけ

が無限に目的を忘れて前え前えと動くひとつの夢の世界を見おろしている。さうした抽象衝動から、作品

衝動へとかりたてられる。而しこの私の瞳に中にうつし出された状態とその衝動は実際には到底表現しつ

くされ得るというものではない。それは如何に言葉を探しても、それに当るはまる言葉は見当たらない。

いわば言語以前のものであるからである。こうして言葉以前の意味の衝動を假に〈秘密〉ということにし

て言えば、ここで考えられることはこの言語以前の抽象衝動を意味の代表である言葉のどれかによって代

置する。そうして意味以前のものを意味に代置する技工が工夫される。これが作品する〈秘密〉からの過

程である。他の作家の作品する過程の秘密も大体さうしたものではないかと考えられる。恐らく作家の誰

でもがあゆむひとつの無意識的な意識の働きであるとも考えられるのである。詩というものは多かれ少な

かれ、こうした順路を通て創られたものではないだらうか。コトバとは即ちロゴスである。そのあるとこ

ろのことばを素材として、コトバ以前の衝動を形成するところに詩が創られる。


                               (続く)