なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(166)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(166)」復刻版を掲載します。

      
          黙想と祈りの夕べ通信(166[-9]2002.12.1発行)復刻版

 今日は朝キリスト教入門講座がありました。そこで先日寿の青年ゼミに参加した方から、炊き出しで或

る婦人の言われた言葉はどういうことなのだろうか、という質問がありました。その婦人は、キリスト教

(教会)は天国のことを語るが、寿の炊き出しのような現実の社会のことには無関心なので、自分は教会

に行かないようになったということを話した、というのです。それを聞いた方は、何のことだったか分か

らなかったのでしょう。私はキリスト教や教会にはその婦人の言われるような面があり、通常宗教批判と

して問題とされていることであるとお話ししました。最も有名なのは、マルクスの「宗教は阿片だ」とい

う批判です。『法哲学批判に寄せて』の中で以下のように述べられています。「人民の幻想的な幸せとし

ての宗教を廃棄することは、人民の現実的な幸せを要求することである。自分の状態について幻想を捨て

ろと要求することは、幻想が必要となっている状態を捨てろと要求することである。従って、宗教の批判

は、宗教と云う後光に包まれている娑婆の批判を胚胎している」。あるいは、信仰と社会実践(倫理)を

区別し、教会では信仰の問題が第一義で、政治的社会的な問題は二義的な問題であると言って、政治的社

会的な問題には取り組まないという立場・考え方もあります。社会実践よりも伝道することが優先されな

ければならないというのです。私は、当教会にあって、「共生と自立」を課題として信仰と社会実践が切

り離されない方向を模索しています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。日曜学校の降誕劇でマリアの受胎告知の描か

れ方について、最近信徒の友の本田哲郎さんの記事を読んで考えさせられている。本田さんは、マリアの

懐妊はあの時代ではとんでもないことであったという。聖書では人口調査のためにヨセフの生まれ故郷ベ

ツレヘムにマリアとヨセフは行って、泊まる宿屋がなく、馬小屋でマリアはイエスさまを産んだことにな

っている。しかし、もしヨセフの故郷であれば、誰か親戚がいてもおかしくないし、その親戚の家に二人

は迎えられて泊めてもらえたのではないか。マリアの懐妊がハレンチだったので、二人は泊めてもらえな

かったのだと。馬小屋は最近洞穴という説もあり、二人は仕方なく洞穴に泊まったのかも知れない。だか

ら、受胎告知のマリアの「わたしは主のはしためです。み心のままになりますように」というマリアの言

葉は、信仰深い崇高な行為のように思われているが、イエスの十字架と同じくらいにすごいものだったの

ではないか。本田哲郎さんの記事を読んで、今までのペイジェントのイメージを覆されるのを感じた。今

までは疑わないで教会の発信するメッセージを受け入れてきたが、歴史的背景が明らかにされることによ

って、生々しい人間の現実があることを知らされる。人間的な恐れや喜びを感じられるダイナミックなも

のとして、聖書物語を捉え、困難であるがそれを子どもたちに伝える努力をしていきたい。

 一人の方は、自分の会社で自動車の盗難があり、盗難の多発を憂える発言をされた。

 別の方は、今日の講師W牧師のお話を聞いた後、W牧師とその著書『場の顔』について話した。この本

は以前読んで、前の教会を出るきっかけにもなったのだが、吉田満さんの本の中にも人が場によって顔を

変えるという、同じテーマが描かれていた。一時代前の二元論、今のマルチの生き方は仕方ない面もある

が、人間はその根底において一貫したものが必要なのではないかと思う。

 さらに別の方は、寿の人は自分の仕事とも関わりがあり、寿から来る人が思いもよらない行動をとるこ

とがあって、常識がないと自分も思っていたが、W牧師の話を聞いて、自分の思っていた常識とは何かが

問われた気がした。生活保護を受けている人は、一度受けたら自分で仕事をしなくなると批判する人もい

るが、実際には仕事がしたくても仕事がないということを、今日のW牧師の話を聞いて分かった。予断や

偏見で人を見てしまうことが多いが、気を付けたいと思った。

 また一人の方からは、エルサドバドルに息子が仕事に行っていて、家で一人でいるのは寂しくあるが、

この集いで慰められている。息子が無地に仕事を終えて帰ってくることを祈っている。



         「いつも主と共に」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
 わたしたちは、いつも主と共にいるであろう。
                        第一テサロニケ4:17

 キリスト者にとって、この地上に働いている間も、神にあって生きているということほど貴重な思いは

ありません。そして大いなる日が来る時に、― その時は問題ではありません。神がわたしの主であるか

らです ― わたしはあがなわれます。しかもこの慰めはキリスト者だけが持っているものです。

 偉大な力をもってこられ、あらゆる死者と悪魔ですら目ざめさせるこのさばき主は、キリスト者の兄弟

であり、父であり、後見人であります。キリストがその友であり兄弟であるわたしたちを招き、わたした

ちのうちにその賜物と聖霊をごらんになる時、それはなんという言い表わせない喜びでしょうか。それは

死者にとって喜ばしい出来事です。生まれつきの性質にとっては、そのような神々しい主権者を見ること

はおそろしいことですが、霊は喜びをもってこの主権者をあおぎます。そしてこの慰めを持たない人は、

だれでも悪魔によって苦しめられます。すべての人がこのことを心にとめ、それに従って行動できること

が望まれます。だれも隠れ場を見いだすことはできないからです。たとえ、水中、地下、千ひろの深さに

かくれても、よみの淵にかくれていても、すべてはあらわれてこなければなりません。キリストがさばき

主となるとき、すべてのものは明るみに出されるのです。
                        
                                  1525年の説教から