2020-10-13 船越通信(469) 船越通信、№469 2020年10月4日 北村慈郎 ・ 9月27日(日)は礼拝後、残れる人で30分ほど教会の庭の草取りをしました。以前役員会でその月の最後の日曜日の礼拝後に、教会掃除と週報の発送作業をすることに決めていました。庭を含めて教会の掃除は、もっぱらNさんとSさんの自主的な労働奉仕によって、何とか清潔が保たれている現状です。お二人だけに任せてしまわないで、少しでも他の人も担えたらということで、月の最後の日曜日の礼拝後に教会掃除と週報発送作業をその日の礼拝出席者の中で可能な人ですることにしました。この日は雨上がりの日でしたので、庭の草を抜くには良い日でした。それでも根がはびこって、手ではなかなか抜けない草もありましたが、そのような時は小手のようなものを使って、私は草の根を抜きました。この日は10人が残って、週報の整理と庭の草抜きをしましたので、完全にとはいきませんでしたが、相当伸びていた庭の雑草を大体抜くことができました。ただ雨上がりということもあって、腕を出していた人の中には、結構蚊に刺され、虫刺されのかゆみ止めの薬を塗る人もありました。また体が柔軟な人や若い人はしゃがんで草抜きをしていましたが、私は体が硬いこともあって、しゃがんでの草取りはきつく、土にタオルを敷いて膝をつけてしました。草取り後、お茶を飲んで散会しました。教会の庭の草取り30分とは言え、共に働くことは、コロナウイリス感染でそれぞれ分断されているからかも知れませんが、元気をもらえるように感じました。 ・ その後私は来週の準備をしてから、午後2時過ぎに船越教会を出て、鶴巻に帰りました。鶴巻に帰ってから、寿地区センターに10月からM主事と共に新しく副主事としてM・Nさんという方が働きますので、その関係で手続きの書類を作る作業をして、その書類を28日(月)朝速達でM・Nさん宛に出しました。その他にも必要な手続きがあり、寿地区活動委員会の会計担当の委員によって進められています。今回の寿地区センターの副主事就任は、事業所がひとりの人を雇うことと同じになりますので、雇用契約書をはじめ社会保険や雇用保険の加入など、当然働く人の立場を考えて、雇用する側の責任が問われます。けれども、牧師の場合は教会に雇用されるわけではないようで、一種の事業主として考えられているようです。社会保険は必要ですので神奈川教区が事業体になって、各教会の牧師は社会保険に加入できます。けれども、私は牧師になってから今まで4つの教会で働いてきましたが、雇用契約書も取り交わしたことがありませんし、雇用保険にも入ったことがありません。そもそも事業主は自分で商売しているのと同じですから雇用保険に入れないのです。私は前々から牧師は八百屋さんの主人のような立場ではないかと思って来ました。妻がいる場合には夫婦二人で八百屋の商売を切り盛りする事例も多いと思われますが、教会によっては牧師も夫婦二人で牧会するものと思っている信徒も多いのです。死んだ連れ合いの千賀が、よく教会員の方の多くが「あなたに話したことは私も知っているものと思っているようよ」と言っていました。最近神奈川教区性差別問題特別委員会が『教会と女性―第三十三集―』を発行し、その中に委員の千賀への追悼文が掲載されています。船越教会のクリスマス燭火礼拝とイースターに出席するKさんも「生涯、笑みつつ歩んだ千賀さんへ」と題した追悼文を書いています。その中の一節に、「千賀さんとの“はじめまして”も思い出した。日曜学校のスタッフとして、何かのイベントの買い出しに行ったと時だったと思う。その頃わたしは、大きな悩みを抱えていて頻繁にセンセイに電話してた。だから千賀さんに、いつもセンセイにはお世話になっててと言ったら、「そうなの? ウチお互いに教会のことあんまり話さないから」って返事、覚えてる? そのね、あっけらかんとした物言いに、いっぺんにやられたんだよね。・・・」とあります。私は彼女と結婚した時に、彼女に「牧師婦人にだけはならないでよね」と言いました。もちろん彼女は「牧師婦人」としてではなく、私は若い時から「夢見る夢夫」的な面がありましたから、夫婦関係において教会にあってもいろいろと私を支えてくれました。とにかく牧師の社会的立場は曖昧な面が付きまとっているということです。牧師も宗教家ですから、宗教家にはその社会に内在しながら、その社会の枠組みにははまり切れないプラスα―があるということなのでしょう。 ・ 28日(月)の夕方に連れ合いの帰天後家族での密葬で会って以来、久しぶりに下の息子が鶴巻にやってきました。彼はバスの運転手をしていて、ひとりで生活していますが、何とか元気でやっているようで安心しました。娘と3人で伊勢原の回転ずしで夕食をとり、普段彼は外食は余りせず、自分で食材を買って作っているようですので、秦野の農家で収穫したばかりの新米を帰る時に持たせました。次に彼と会うのは、千賀の一年ではないかと思います。この週は、もう一人上の息子とも会う機会がありました。彼の所から必要があって持ってきてもらうものがあり、10月1日お昼前に車で鶴巻に来てくれて、マンションの玄関でそれを受け取り、仕事があるというので、顔を見ただけで別れました。彼は介護の仕事をしていますので、今は大変だと思いますが、元気そうでしたので安心しました。この上の息子とも次に会うのは千賀の一年の時ではないかと思います。 ・ 29日(火)午前11時に湘南台駅で一人の人と待ち合わせをして、寿地区センター関係の事で、一時間ほど喫茶店で話をしてきました。私は1995年4月から名古屋の御器所教会から紅葉坂教会に転任してきましたが、確か1996年から教区の寿地区活動委員会の委員になり、現在まで約25年寿地区センターに関わってきました。直接寿地区センターの働きに参加することもありますが、むしろ寿地区センターを運営面で支える寿地区活動委員会で働いてきました。寿地区センターの設立が1987年ですから、10年、20年、30年の節目も委員の一人として加わって来ています。今後は私の体力があるうちに、寿地区センターの今後の歩みについて、専任の二人と宣教師及び委員の方々と共に道をつけていきたいと願っています。