なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マタイによる福音書による説教(95)

10月4(日)聖霊降臨節第19主日礼拝(通常10:30開始)

 

(注)讃美歌はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう(各自黙祷)。

② 招きの言葉 「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」

                            (ローマ5:5)

③ 讃 美 歌  8(心の底より)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-008.htm

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文  詩編139編1-10節 (讃美歌交読詩編152頁)

        (当該箇所を黙読する) 

⑥ 聖  書  マタイによる福音書22章15-22節(新約43頁)

        (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌 437(行けども行けども)

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-437.htm

説教 「神のものは神に」 北村慈郎牧師

祈祷

  福音書を読んでいますと、イエスという方は、誰にでも好意的に受け入れられたわけではありません。むしろ、中にはイエスを何とか貶めてやろうという人たちがいて、そのような人たちの冷たい視線や悪意に満ちた嫌がらせを受け止めなければなりませんでした。

 先程司会者に読んでいただきました、マタイによる福音書22章15節以下のところも、イエスの言葉尻をとらえようとする悪意に満ちた反対者たちとの論争の記事です。

  15節をもう一度読んで見ますと、「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」と記されています。この言い方からしますと、ファリサイ派の人々は何とかしてイエスを貶めようとして、綿密な計画を立てていたことが分かります。さらにそれだけではなく、「(自分の)弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた」(16節)というのです。つまり、ファリサイ派の人々と同じように、イエスのことを快く思っていなかったヘロデ派の人々と手を組んで何とかイエスを貶めようとしたというのです。

  それだけファリサイ派の人たちにはイエスが邪魔だったということでしょう。なぜそれほど彼らにとってイエスが邪魔だったのでしょうか。

  それは、ファリサイ派の人々にとってイエスは自分たちの存在を否定するように思われたからです。彼らは自分たちが神の教えである律法をしっかりと守って生きている正しい生き方をしていると確信していました。自分たちが間違っているとは考えていませんでした。

  ところが、イエスが現れて、イエスが語っていること聞き、行なっている業を見るに従って、そういう自分たちの正しさが揺れ動かされざるを得ませんでした。そこでイエスの存在に不安と恐れを抱いたのだと思われます。イエスに出会って彼らの抱いた不安と恐れを、彼らは自分の方に向けて深く問い、自分を見つめなおす契機にしようとは考えませんでした。自己防衛と言いましょうか、自分を守るために、イエスを攻撃する方に向かっていったのです。

  その表れの一つが、今日の聖書の箇所に出ているファリサイ派の人々の行動であります。彼らが弟子たちにイエスに尋ねさせたという言葉が16節、17節に記されています。そのところも、もう一度読んでみたいと思います。

  「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところが、どうお思いでしょうか。お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

  このイエスへの質問そのものが、屈折しています。「わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれにもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」と本当に思っているのなら、イエスを貶める必要がないと思うのです。これは先ずイエスを持ち上げておいて、罠にかける、悪意を持った言葉に過ぎません。自分を守るために、人はこういう言い方をすることもあるのす。

  「イエスは、彼らの悪意に気づいて言われました。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい』。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた」(18-20節)。

  デナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻印されていて、その裏には「神的アウグストウスの子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」、または「高貴なる神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」という文字が刻まれていたからです。

  「彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」(21-22節)というのです。

  「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」を、田川建三さんは、皇帝のものとは人頭税を指し、神のものとは神殿税を指すと解釈し、イエスのこの言葉は皮肉と解する以外にないと言っています。ローマ皇帝人頭税ユダヤの民衆から巻き上げているのと同じように、ファリサイ人の信じていたユダヤ教の牙城であるエルサレム神殿は神殿税をユダヤの民衆から巻き上げているのだ。だから、どっちもどっちではないか。田川さんは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉をそのように解釈しているのです。

  他の多くの聖書解釈者は、「神のものは神に」を、神に対する従順が国家に対する従順より優位にあることを示していると解釈しています。

  どちらにしても、このところの問答におきますイエスの自由さが際立ちます。悪意ある質問にも、惑わされること無く、芯がぶれないといいましょうか、すっくと立っているイエスの姿がこの問答からも想像されます。

  私は自分の中にも、ファリサイ派の人々の悪意のようなものがあるように思います。自分を正当化して、イエスを罠にかけ、十字架へと追いやっていくような的外れな自分が、自分の中にもあるように思うのです。

  ですから、ファリサイ派の人々と自分は違うとは断言できません。結局イエスを十字架へと追いやってしまいものが自分の中にもあるように思うからです。

 イエスは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という壮絶な叫びを挙げて、ローマ帝国に反逆する者への見せしめの刑罰である十字架にかかって息を引き取ったと言われています。そして、そのイエスの十字架は、私たちの罪を私たちに代わって引き受けて、私たちのために死んでくださった贖罪の死であるというのです。イエスが私たちの身代わりに死んでくださることによって、私たちは罪が赦され、アバ父よ、と祈ることのできる神の子にしてくださったのだというのです。そこに深い神の愛があると。

  イエスの十字架にこのような神の贖罪の愛を見出すことができるとしても、イエスが私たちの代わりに背負ってくれた私たちの罪を、しっかりと見つめなければ、その罪の赦しの深さ、大きさを感じることができません。

  そういう意味で、私は、ローマの信徒への手紙7章7節以下に記されています、私たち自身の中にある罪の問題に触れているパウロの言葉を想い起こさざるをえません。

  「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。・・・わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められているこの体から、だれがわたしを救ってくれるうでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ロマ7:18-25)。

  イエスを十字架にかけたのは、直接的にはローマの権力ですが、間接的には今日のところに出てくるファリサイ派の人たちを含めて、神のみ心にふさわしくない思いと行動をもつ人々によってです。神の御心にふさわしくない思いと行動とは、この世の貧しい人たち、差別抑圧されている人たちへのあわれみという共感をベースにした分かち合いではなく、自分は正しいと考え、富への誘惑に抗えないで、自分さえよければと考える人の思いと行動です。その中には私たち一人一人も入っているのではないでしょうか。

  ノーランは、人間の悪とは貧しい人や差別・抑圧されている人を生み出す、この世の政治的・社会的構造そのものであり、そういう社会はサタンの国であり、神の国ではない、と言います。

 イエスは、「金持ちが天の国(神の国)に入るのは難しい。…らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(マタイ19:23,24)と言い、「貧しい人々は、幸いである」(ルカ6:20)と言いました。ノーランは「イエスは貧困を理想化したのではない。反対に彼の関心は、誰も貧しく困ることがないようにすることであった。彼が所有欲と闘い、人々に富を気づかわないで物質的所有物を分かち合うよう励ましたのは、この目的のためであった。しかしこれは共同体の中でのみ可能である。イエスは、貧者も富者もないような構造の王国あるいは世界規模の共同体(=神の国)をあえて希望したのである」と言いうのです。

 そして、「イエスは、当時のこの世の政治的・社会的構造のすべてに有罪宣告をした。それはすべてサタンに属していたからでる。/神の国が到来するときには、神がサタンに取って代わる。神は人類共同体の全体を治め、王国や支配権を、社会にあって神の目的に奉仕する人々に与えるであろう。あらゆる悪は除去されて、人々は神の霊に満たされるだろう。/両者の違いは、悪が至高権をもつ人類共同体と、善が至高権をもつ人類共同体との違いである。それは、権力および権力構造の問題である。現在、世界には多くの善意の人々がいるだろうが、悪は依然として優生であり、サタンがまだ力をふるっている」と言うのです。

  さらに「イエスはその解放活動をサタンとの一種の権力闘争と見ていた。つまり、あらゆる形態の悪がもつ権力に対する戦いである。彼のいやしの活動は、サタンの家や国への一種の夜盗行為であった(マルコ3:27平行複)。そうした活動ができたのは、サタンより強力な何かが働いていたからである。最終的には、善は悪より力がある。イエスは、神の国がやがてサタンの国に打ち勝ち、この地上にあるその国に取って代わると確信していた」と。

  私は、「わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行なっている」というパウロの善悪を、今紹介したノーランが言っている善悪の意味で受け止めたいと思っています。

  そのように考えますと、今日の聖書の記事でファリサイ人がイエスを貶めようとしたのは、彼らがユダヤ教を信じる宗教家として、貧しい人や差別抑圧されている人を生み出す、この世の政治的・社会的権力構造に加担していたからであることが分かります。その彼らの前に、イエスが、神の憐れみによる誰一人疎外されることのない全人類的な分かち合いの共同体である神の国の到来を告げ、それにふさわしい言葉と行動をもって現れたのです。ですから、彼らは自分を護るためにイエスを何とか貶めて、イエスの存在を否定しようとしたのです。

  私たちはどうでしょうか。ファリサイ人たちと同じような自分を感じないでしょうか。しかし、それと同時に、そのことにも増して、イエスを信じて、イエスに従うイエスの仲間の一人であることを想い起したいと思います。

  私はノーランを読んで、今まで漠然と感じていた神の国のイメージがはっきりしたように思っています。神の憐れみによる全人類的な分かち合いの共同体というイメージです。

  とすれば、使徒言行録に記されています最初に誕生した教会の姿であります「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(2:44,45)ということが理解できます。

  教会は、神の憐れみによる全人類的な分かち合いの共同体である神の国の到来を信じ、その神の国の実現を目ざす、この世における神の国の前線基地だからです。船越教会もそのような教会として、内に閉じるのではなく、社会に開かれた働きを担っていきたいと願います。その意味で、船越教会が礼拝共同体であると共に、あわれみによる分かち合いの共同体として、その内実を積み上げていきたいと思います。

  主が私たちのその知恵と力を与えてくださいますように。

 

祈ります。

 神さま、今日も船越教会に集まって、共に礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。

 神さま、現在、世界大で奪い合いの競争が過剰になっているように思われます。その中で教会もまた、自らの存立基盤であるあわれみによる分かち合いの共同体を失いかけているではないでしょうか。そのことによって、私たち自身がファリサイ人と同じようにイエスを貶めているのではないかと、反省させられます。

 神さま、もう一度、私たちに五つのパンと二匹の魚を分かち合ってみんなが満腹したイエスの供食物語を想い起させてください。誰も排除されない分かち合いによる喜びを、私たちが創り出していけますように、あなたの霊の力を私たちに与えてください。

 今奪い合いの中で、命と生活が脅かされている人々を、あなたが顧み、支えてください。

 今日も礼拝に集うことができませんでした、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。

 様々な苦しみの中で孤独を強いられている方々を支えて下さい。

 今日から始まる新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。

 この祈りをイエスさまのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン

⑩ 讃 美 歌   504(主よ、み手もて)

 http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-504.htm

⑪ 献  金(後日教会の礼拝が再開したら捧げる)

⑫ 頌  栄  28(各自歌う)      

 ⑬ 祝  祷

   主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

   

これで礼拝は終わります。