今日は、午前中嵐のように雨も風も強い天候でした。私の鶴巻のマンションは”ひかりの街”というマ
ンション群の町内会(?)の一員になっていて、今日はその”ひかりの街”町内会(?)のお餅つきがあ
りました。連れ合いは今年マンションの理事の一人ですから、責任上お餅つきにも行きました。昼食は、
そこでついたお餅をいただいてきて、つきたてのあんと黄粉の餅をいただきました。
さて、今日は「父北村雨垂とその作品(157)」を掲載します。
父北村雨垂とその作品(157)
原稿日記「一葉」から(その40)
難解性の問題について(3)(1月10日に続く)
川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表
(二) 1969年(昭和44年)12月
スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットが〈芸術の非人間化〉を発表したのが1925年であるか
ら、詩人のアポリネールやマラルメがシュールレアジズム宣言を刊行し、理論を展開してその基礎をつく
った頃とほとんど同じ時期であって、せいぜい半年か一年位の差ではなかった筈である。またピカソがパ
リで彼の友人等と總合展を開いたころにも当る。そこでこのガセットがこの芸術の非人間化でどんなふう
にみていたかを、その訳者川口氏からのものから受けとると大体次のようになる。〈芸術作品が描き、あ
るいは語る人間の運命を喜んだり悲しんだりすることは、眞の芸術理解の歓びとは異る。而も作品の人間
的内容に心を奪われることは、本来の美的享受と原則的に相容れない〉ものとして〈窓ガラスを透して
― 庭を見ることと窓ガラスを見ることとは二つの異る視覚の調節の方法を要する。互に相容れない操
作〉であるとしてその例をもって前言の要を明らかにし〈肖像画のモデルになった人物と、その肖像画と
は全く異なるものである。しかも吾々の関心はそのどちらかに向かう。前者では吾々は王(註モデル)と
共に(生き)後者では芸術に触れる〉と断じ〈芸術は透明で実態を欠くものであるから芸術に触れるもの
は選ばれた人〉のみであると言い、19世紀の芸術があれほど人気を集めたのは〈芸術でなくて人生の抜
粋であった点でそれは大衆向きであった〉と断じ、それは浪漫主義や自然主義がその距離を縮めて寫実と
いう共通点をもって来たことによると指摘し、〈純粋芸術というものが、はたして実現可能かを論ずるつ
もりはないが ― よしんば純粋芸術の実現が不可能であらうとも芸術純粋化の動きが支配的な力をもつ
ことは有りうるであらう。そのような動きは浪漫主義や自然主義の作品に満ちあふれていた人間的なあま
りにも人間的な要素は少しづつ排除してゆくことになり、そして過程に於て人間的内容がほとんど無視で
きるまでに希薄になることがあるかも知れない。そのときになれば吾々は特殊な芸術感受性に恵まれた者
のみが理解し得る。大衆向きでなく芸術家向きの群集のためではない「優秀」な芸術を迎えることになる
かも知れない〉として〈近代芸術は芸術家と非芸術家とのふたつの階層に分割した〉とも云ひ、〈彼等の
芸術観がきわめて道理に適ったものであることを吾々は知るであらう。それは気まぐれの思いつきとは程
とおく、芸術がそこに至るまでに積み重ねて来たすべての成果のもたらす必然的な輝かしい帰結〉と、か
なり尖鋭なことばで表現している。
この点、吾々川柳界がそこまで来ているかどうかは伏せておくことにして、ガセットがマラルメをどう
みていたかを次の一節に御覧願いたい ― ここのところは福岡阿弥三君にまかせておけばよいのだが
― ガセットは〈マラルメは詩人以外の何者にもなりたがらなかった十九世紀最初の詩人であった。マラ
ルメは彼自身の云うように(自然によって提供される材料を回避)し人間、動物、植物誌を突き抜けた短
い叙情詩をつくった。こうした詩は感じられなくともよい。なぜなら、人間的なものを含まないゆえに感
情の手がかりもないからである。女性えの言及があったとしてもそれは誰でもない女性であるし、時が告
げられてもそれが(日時計に割まれない)時であるからである。マラルメの詩はこの様な拒否的な方法で
つくられるので生活的な響きはすっかり消されて、ただ眺めることが歓びとなる地球外の人物を、提示し
て呉れるのである。詩人はよろしく姿を消して叙情詩の眞の主役である言葉を大気へ撒きちらす名前をも
たない、純粋な声となるべきである。名前のない純粋な声、詩歌の音響的運搬者こそ周囲の人間どもから
自身を解き放つことを知った詩人の声となるのである〉そして〈詩は高等数学にも似た隠喩になった〉と
冷静に判定している。
(続く)