なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(176)

 今日は「父北村雨垂とその作品(176)」を掲載します。

               父北村雨垂とその作品(176)
  
  原稿日記「四季・第一號」から(その14)

 ハイデガーの時間については後に触れる予定を持っているが、古代ローマの精神界に於いてどう感じて

いたか、或は観たかを彼等の言葉即ちラテン語に於いての時間を不敏ながらみてみよう。

 ラテン語四週間(村松正俊著)から時間tempusの項に於いてのラテン語に於ける時間の種々相を次の様

に言表している。「現在の意味、ラテン語動詞の現在には二つの意味がある。一つは動作そのものを示す

か、或は現在の習慣的な動作を示すもので、一つは現在のこの瞬間に動作が終わらないで進行中であるこ

とを示す。例えばamo(oの上にー)と云えば、『私が愛する』と云う動作そのものを示しているほか『私

が愛している』というように、動作が終わっていないことを示す。現在時制一つがその二つの意味を持っ

ている」。これは「現在」と云う時間現象を素朴とも云える純粋感触から表象されたと断定する事が出来

る。ラテン語の文法から例を摂ってみる。

 (以下省略)


 春蘭を 鉢に 老父御します天に         1983年(昭和58年)7月11日


 時間そのものに相は無い。時間そのものを吾は見ることも聞くことも匂いも、味もなく、冷熱、寒暖も

無い。即ち無相にして無感触である。その意味に於いて時間は「無若しくは空」である。それでいて吾は

この「無」なる時間を除外することは出来ぬがそれでいて一瞬も時間を離れることは出来ぬ。いわゆる無

相なる時間を吾々は太陽の光と地球の自転によって時間の相をみる。即ち一回の自転を単位として時間の

相を二十四に分割しそれを一日として、その二十四の一即24分の1を一日に分割して、一時間を60に分割

して分にし、その一分を60分の1に分割して一秒として、時間をこの様な他物の現象から帰納して時間を

観ることが出来るこの意味に於いて禅者が生死を無なる時間相のうちに現象として捕らえると共に無なる

時間相のうちに現象を把握する訳である。即ち無は常識に於いて云われる單ある「無」では無く、無相的

存在として無の存在を観る訳であり、禅学に於いて云う禅即ち「心」こころも亦無相の相として特に顕著

に人間の「心」を無相の相と観て、生死なる現象から生死を把握することとなるのである。

 以上あえてハイデガー現象学なる「存在と時間」を考えるまでもなく結論が成立する。

                         1983年(昭和58年)7月12日


 フッサールを祖とする現象学、その最大有力なる後継者ハイデガーも、時間に就いては現象学的に時間

を外界(そと)から観て時間の中(うち)即ち現象それ自体の内から感じ摂らうとしなかった。この外(そと)

から観じた現象学と現象の体内から感触した禅者の意識の場が内と外とに大きく隔たったことを指摘する

ことが出来る。言葉を換えて云えば、彼等自体が現象的所産であることを措いて現象そのものとしながら

現象を対象として時間を彼等なりに論説したと考えられる。禅者がそれ自体をも現象そのものとしてその

現象そのものの内から時間を感じ摂った意識とは、結果的にみて各々の意識その大きく隔つものが在る。

                      1983年(昭和58年)7月14日


 膣(ちつ)は子宮への公道であり、故にその公道の尊厳を犯すことなかれ。

                      1983年(昭和58年)7月26日

     純粋意識の神性

 言葉は意識を基盤として生起する思想の象徴である。

 キリスト教の聖書には「コトバは神と共に在り、コトバは神なりき」とするならば、意識の源泉である

言葉は意識即純粋意識こそ神であり神性そのものと断ぜざるを得ないのである。

 仏教者が純粋意識を現象そのものとしてその現象それ自体なる純粋意識を仏とするこの命題創造したも

のと私は考えざるを得ない。仏の三身と云う命題が明らかにそれを物語っている訳である。

                      1983年(昭和58年)7月16日