今日は、これから鶴巻から船越に行き、横須賀の路上生活者のパトロールに参加します。「黙想と祈り
の夕べ通信(189)」復刻版を掲載します。
黙想と祈りの夕べ通信(189[-32]2003.5.11発行)復刻版
この黙想と祈りの夕べの前に、アメリカで今イラクへの戦争に反対しているミュージシャンがバッシン
グを受けている様子がテレビで放映されていました。一方国防省が開いた慰労会では、ブッシュの行動に
賛成するミュージシャンが歓迎されている様子も放映されていました。それを観ながらいろいろ考えさせ
られました。私は1969年に神学校を出て牧師の歩みを始めました。70年問題の一つであります東神大問題
(全校の半数近い学生が支持していた全共闘を機動隊を導入して教授会が排除し、その後半数近い学生が
東神大を去らざるを得なかった)の思想的な問題は、キリスト教のイデオロギー化だったと思います。戦
中に国家の力によって合同した日本基督教団の問題も、国家に迎合したキリスト教信仰が国家のイデオロ
ギーになってしまったという問題です。ブッシュの戦争を支持するアメリカのキリスト教も同じ問題性を
露呈しています。私は聖書信仰の中心には、神信仰による国家や人間の相対化、非宗教化があると思って
います。もし国家や人間の絶対化、神格化が神信仰によってなされるとすれば、そのような神信仰はイデ
オロギーの一種にすぎません。イデオロギー化した信仰は信仰ではないことを、」よくよく考えておかな
ければならないと思っています。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。ゴールデンウィークの休みなので、外に
出かける機会も多い。上野に行ったときに、公園内のホームレスの方のブルーシートが整然と片付いてい
て、意外に感じた。新宿に行ったときにも、ダンボールハウスが見当たらなかった。横浜の町も意外にき
れいに片付いている感じである。その反面大きな紙袋をもって歩いている人が多いように思う。小奇麗に
しているけれども、多分この人は一人で町に出て来て生活しているのではと思える人である。片付けるの
は公共の場所なので知恵だとは思うが、汚いものを見たくないという見えない力がそれを強いているとす
れば、いやだなーと思う。誰もが自然体でいることを許さない見えない力を感じる。これからますます景
気も悪く、人間関係も疎遠になって、町で生活する人が増えてくると思うが、そういう人の生活も保障さ
れる社会であって欲しい。いのちが守られ、積極的に仕事を見つけることができるように、仕事が分かち
合われたらと願っている。
吉本隆明の「ホームレスに想う平和の像」という文章の一節を紹介したいと思います。「経綸の志の強
いひとからみれば、公園の木立のなかや上野の山上に青テントやダンボール箱の積み重ねの住居をつくっ
ているホームレスは、街の美観を損なうとか、正業について家を持てとか、家族と和解して家に帰れとか
いう勧告になるかもしれない。/ごもっともな次第だが、わたしのなかには、寛容に、できるだけ長くそ
っとしてやってもらいたいものだというひそかな願望が兆したりする。その願望は、じぶんのなかにあ
る、この社会への心身の不適応からでてくる本音を交えているのだとおもう」。
「キリストの義」(『ルターの日々のみことば』より)
「それがきたら、罪と義とさばきについて、世の人の目を開くであろう。義についてと言ったのは、わ
たしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである」
ヨハネ16:8,10
キリスト者が神の前に立ち、義とされ、罪のゆるしと永遠の命を受けるための義は、キリストが父のみ
もとに行かれた義以外にはありません。すなわち、主がご自分の上にわたしたちの罪を負い、わたしたち
のために十字かの上に死の苦しみを受け、葬られ、よみに下られたことです。しかし、主は罪と死とよみ
の下におかれることなく、復活と昇天により、これらに打ち勝ち、今や、父の右に全被造物の全能の主と
して座しておられるのです。
この義は、この世と理性に隠されているだけではなく、聖徒たちの目にも隠されています。それは、わ
たしたちのうちにある思想とか、ことばとか、行為ではなく、わたしたちの外と上にある義だからです。
それは、キリストが父のみもとに行かれることであって、わたしたちの目や感覚の領域外にありますか
ら、わたしたちは見ることも感じることもできません。それは、この義について宣教されたみことばを信
じることによってのみ、認めることができます。すなわち、主ご自身がわたしたちの義であって、わたし
たちはわたしたちに栄光を帰せず、ただ主キリストにのみ栄光を帰さなければならないという真理です。
ヨハネ福音書16章の講解