なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(193)復刻版

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(193)」復刻版を掲載します。


       黙想と祈りの夕べ通信(193[-36]2003.6.8発行)復刻版

 今日のローズンゲンの主日聖書箇所の一つであります、ヨハネ福音書15章26節から16章4節までを読ん

で感じたことをお話しします。16章2節にこういう言葉がありました。「人々はあなたがたを会堂から追

放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」。ヨハネ

教団はユダヤ教団との軋轢、葛藤の中にあったと思われますので、このヨハネの言葉の歴史的背景は、そ

のようなユダヤ教団からのキリスト者の追放ということではないかと思います。1世紀末のユダヤ教

は、彼らの祈りでありました「十八の祈願」の中にキリスト者を呪う祈りも入っていたと言われていま

す。イエスの死と復活の後に誕生しました最初期の教会は、はじめはユダヤ教の枠の中にあったと思われ

ますが、段々とユダヤ教の枠を越えて独自な活動を展開していったと思われます。たまたまヨハネの教団

ユダヤ教団の強い地域の中にあり、ユダヤ教の枠組みを越えて独自の活動を展開していたヨハネ教団が

ユダヤ教団から圧迫を受けたのでしょう。ユダヤ教の会堂からのキリスト者の追放と、場合によっては、

追放だけではなく、ユダヤ教の人々からキリスト者が迫害を受け、殉教していく人もあったのかも知れま

せん。「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」という言葉が、単なる予

告なのか、実際に起こったことなのかは分かりませんが、キリスト者が場合によっては死を覚悟しなけれ

ばならない状況が予想されます。有事法関連法案が国会を通過していく現在の日本の状況を考えますと、

私たちキリスト者も戦時下の教会のように国家権力に迎合するか対峙するかが問われるようになるかも知

れません。二度とかつての教会のように国家への迎合という過ちを犯すことがないようにしなければなり

ません。そのためには、「会堂からの追放」という困難を背負って、イエスの福音にしっかりと立とうと

したヨハネの教会の人々の信仰に見倣いたいと願います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。自分はボランティアとしてずっと障がい児の

家族に関わってきているが、その中の一家族が4月から当教会の礼拝に来ている。自分は教会に来るよう

に勧めたり、信仰を勧めたりしたことは全くない。ただ連絡を受けるときに、電話で牧師の夫が出ること

もあるので、自分のところが教会であることは分かっている。この家族については、前々から教会の交わ

りの中で支えられるようになればと願っていた。たまたまお子さんがキリスト教主義の幼稚園に入れて、

幼稚園から日曜学校に行くように勧められ、教会に行くなら私の教会にということで来るようになった。

先ほど歌った讃美歌540番の3節に、「共に嘆き、共に泣いて、互いに重荷を 担い合う」と歌われてい

た。そのようにしてこの家族が教会の交わりの中で支えられたら、力強く生きていけるのではないかと思

う。自分も小さい時からこの教会の交わりによって支えられてきたと思うし、教会というところは、そう

いうところだと信じている。彼女が求めているなら、礼拝でメッセージを静かに聞けるように、手助けで

きたらと思う。日曜学校で交わりつつ、道を求めている彼女のために祈ってもらいたい。

 またもう一人の方が自分の家族のことを話された。この日役員会の時に、国立で在宅ホスピスにいる方

の危篤を告げる電話がありました。その方が月曜日の午前0時30分頃夫と娘の腕の中で静かに召されまし

た。4日夜前夜式、5日葬儀式が故人の希望により当教会で行われました。ご遺族の上に主にある平安を祈

ります。



      「神のみ旨ははかりがたい」(『ルターのよる日々のみことば』より)


  その知恵ははかりがたい。   イザヤ40:28


 信じているすべてのことが隠され、見えないのでなければ、信仰ということはできません。見ているも

のは、信じる必要がないからです。しかも外見がばかげて見える時ほど深く隠されていることはありませ

ん。信仰がかくあるべしと示しているのと正反対のものを見、認め、理解するのです。神はすべてわざに

おいてこのように働かれます。主がわたしたちを命に入れようとされるとき、まず死に至らせられます。

主がわたしたちを聖徒にしようとされるとき、まず、わたしたちの良心をうって、罪人とされます。主が

わたしたちを天に引き上げようとされるとき、まず、わたしたちをよみに投げ込まれます。「主は殺し、

また生かし、よみにくだし、また上げられる」と聖書に言われているとおりです(サムエル上2:6)。

 このようにして、神は永遠の怒りの下に、永遠の言いあらわすことのできないいつくしみとあわれみを

かくしておられます。また、不義の下に義を隠しておられます。神がほんの少しの魂しか祝福されていな

いけれども、最高のあわれみに富まれたかたであることを信じ、ある人たちを罪に定められる神が最高の

正義の神にほかならないということを信じるところに、最高最大の信仰があります。

 神がきびしい怒りと不正を示しておられるときに、理性によって神がいかに、いつくしみ深く、あわれ

み深く、正しいかたであるかをわたしたちが理解することができたら、はたして信仰は必要でしょうか。

しかし、理性は理解することができないので、信仰が存在し、これらの真理がのべ伝えられるとき、あな

たがたは信仰を働かせることができるのです。

                                   奴隷的意志