なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(49)

       使徒言行録による説教(49)使徒言行録13:44-52、
          
・今日のところには、「主の言葉」又は「神の言葉」が4度出て来ます。44節に「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」。46節に「神の言葉はまずあなたがたに(ユダヤ人たち)語られるはずでした」。48節に「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した」。49節に「こうして、主の言葉はその地方全体に広まった」。

・この主の言葉乃至は神の言葉とは、パウロの説教によって語られたイエス・キリストの福音を意味すると考えられます。このイエス・キリストの福音は、私たち人間の側から作り出すことのできるものではありません。イエス・キリストによって私たちにもたらされた神の一方的な恵みであって、私たちはその福音の光を、信仰によって受け、その光に照らされて生きることはできますが、その光を自分の所有物にすることはできません。

・イエスは、山上の説教で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5:44,45)と教えています。その教えに続けて、イエスはこう語ったといわれています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と。ここで比喩的に言われている「太陽」や「雨」が福音ではないでしょうか。イエス・キリストの福音は、このイエスの言葉の「太陽」や「雨」のように、その人がユダヤ人であるとか、非ユダヤ人である「異邦人」であるとかに関係なく、全ての人に等しく与えられているのです。

・この使徒言行録の13章16~41節で語られていますパウロの説教では、イエス・キリストの福音は、「罪の赦し」であり、「信じる者は皆、この方によって義とされる」(38節)という信仰義認でありました。この信仰義認も、イエスの信、イエスの信仰による義認ということです。「この方によって義とされる」と言われています。イエスの信、イエスの信仰によって生きる者は皆、「この方によって義とされる」というのです。

・そのような主の言葉・神の言葉を聞こうとして、ピシディア・アンテオキアのほとんど町中の人が集まって来た(44節)というのです。これはちょっと誇張された表現ではないかと思いますが、非ユダヤ人である異邦人にも、パウロの説教によって語られた神の言葉としてのイエス・キリストの福音がアッピールしたという事実は疑いようがないと思われます。

・「しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」(45節)というのです。なぜ「この群衆」、おそらくその中には多くの異邦人が含まれていたと思われますが、その群衆を見て、ユダヤ人は「ひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」のでしょうか。ユダヤ人も異邦人も一緒にパウロからイエス・キリストの福音を聞くことが、ユダヤ人にはどうして出来なかったのでしょうか。それは、ユダヤ人にとって異邦人は汚れた人たちであって、自分たちと同じ仲間の人間とは考えられなかったからでしょうか。しかし、ユダヤ人が信じていたユダヤ教に改宗した異邦人や、改宗まではしなくとも、ユダヤ教の神を信じる「神を畏れる」異邦人は、ユダヤ人は自分たちの仲間として受け入れていたのです。ただその場合は、ありのままの異邦人としてユダヤ人は彼ら・彼女らを自分たちと対等な仲間として受け入れていたわけではありません。ユダヤ人が受け入れていたのは、民族宗教としてのユダヤ教に改宗した異邦人であり、改宗しないまでもユダヤ教の神を信じ畏れる異邦人たちなのです。

・それに対して、イエス・キリストの福音においてユダヤ人も異邦人も一つの民であるということは、全く違います。民族の違いをそのまま認めた上で、福音はその違いを超えて、両者を一つにしていくのです。福音においては、民族は相対化されます。ですから、民族主義的な考え方、ナショナリズムに対して福音は対抗します。国家主義に対してもそうです。日本の天皇イデオロギーイエス・キリストの福音は相容れません。ユダヤ人たちは、そのような福音によって形成される新しい信仰共同体がユダヤ教シナゴーグの伝統の枠を破って行くに違いないことを直感して、異邦の群衆と共にパウロの説教を聞くことを拒絶したのです。

安息日パウロの説教を聞きに町中の人たちが集まって来た時に、その群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対したユダヤ人たちに対して、パウロバルナバは勇敢に語ります。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている」(46節)のだと。

・ここには、ローマの信徒への手紙9章から11章でも触れています、神の救いの歴史におけるイスラエル優先という考え方が背景にあります。「先ずユダヤ人に」。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。肉によればキリストも彼らから出たものです」(ローマ9:4,5)。パウロは無論彼ら同胞の救いを祈り、そのために最善を尽くしました。今読みましたローマの信徒への手紙の前のところには、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(9:2)と言って、「わたし自身、兄弟たち、肉による同胞のためならば、キリストから離れ、神に見捨てられた者になっても良いとさえ思っている」(9:3)と言っています。10章1節では、「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために祈っています」と、はっきりと言っています。

イエス・キリストの福音に対してのユダヤ人の頑なさ、その躓きを、パウロがどんなに悲しんだか。そして、同胞であるユダヤ人が救われることをどんなに強く願っていたかが分かります。そしてそのためにパウロは最善を尽くしたのです。にもかかわらず、ここピシディア・アンテオキアで、ユダヤ人たちは彼らの自由意思で福音のメッセージを拒絶し、愚かにも自ら判決を下し、救いへの道を閉ざしているのです。

・「自分自身を永遠の命に値しない者にしている」。ここでの「永遠の命」は13章37節の「朽ち果てるこのとのない復活者の命」を指していると考えられます。ですから、イエス・キリストを通して実現された新しい命の可能性にユダヤ人が心を開かず、福音に公然と背を向けるならば、「わたしたちは異邦人の方へ行く」(13:46)と、ルカによれば、パウロバルナバは、「ユダヤ人から異邦人へ」という神の救いの歴史の新しい展開を示唆しているのです。

・これは、ローマの信徒への手紙9章から11章では、ユダヤ人の頑なさによって福音は異邦人に向かい、異邦人が救われるのを見て、頑ななユダヤ人が悔い改めて福音を受け入れ、すべての人が福音によって救われるようになると言われています。ローマの信徒への手紙11章の最後36節では、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン」という言葉で終わっています。

・「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。永遠の命を得るように定められている人たちは皆、信仰に入った。こうして主の言葉はその地方全体に広まった」(48,49節)というのです。このように主の言葉によって集まる人々が、ユダヤ人だけでなく異邦人にも広がっていったということが、ここに描かれているのであります。

・主の言葉・神の言葉としてのイエス・キリストの福音には、人を一つにする新しい共同性があることが、この記事から分かります。ユダヤ人と異邦人という民族的な垣根は、主の言葉にとっては何の意味もないのです。このことは、この世の中で国家や民族をはじめとして、文化や生活慣習の違い、言葉の違い、性差や貧富の違いを相対化して、人間と人間とが一つに結ばれていく、主の言葉を賛美する共同体が想定されているということでです。

・主の言葉であるイエス・キリストの福音は、既に全世界の人々を一つに結び合わせているのです。和解と平和は既にイエス・キリストの福音によって私たちすべてに与えられているのです。教会はそのような神の国を先取りしている共同体なのです。

・ピシディア・アンテオキアの会堂に集うユダヤ人たちの、おそらく有力者は、パウロの福音宣教によって、自分たちが大切にしてきたシナゴーグの伝統の枠組みが破られて行く危険性を感じて、「神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」(50節)というのです。

パウロバルナバの二人は、そのようなユダヤ人に対して、「足の塵を払い落して、イコニオムに行った」(51節)というのです。イコニオムはアンティキアから東へ130キロ以上離れている町です。<「足のちりを払い落す」。すなわち、身についた最も無価値なものをさえ捨て去るというふたりの振る舞い・態度は、相手に対する完全な決別を意味するが、これを文字通りにとると、パウロたちが後に再びアンテオキアの町に帰ってきたという14章21節「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオム、アンティオキアへと引き返し・・」という記述とつじつまがあわなくなります。むしろルカは、イエスの教えに基づく(ルカ9:5,10:11、マタイ10:14)プロテスト(抗議)の『しるし』としてこのように言い表したのでしょう」(山内一郎)。

パウロは、ここでユダヤ人と決別しますが、ユダヤ人のことを忘れ去ったわけではありません。これからの伝道活動に於いてもそれぞれの町のユダヤ教の会堂を拠点に活動を続けて行きます。このことは、イエス・キリストの福音である主の言葉に堅く立っていくということと、反対者も自分からは切り捨てないで関わりを持ち続けて行く、その姿勢をよく表わしていると思います。このことが私たちにも求められているのではないでしょうか。

・日本ナザレン教団の石田学さんという方が、教会について、このように言っています。「教会は、自分自身や自分の家族、民族、国家を礼賛する人間の賛美に対抗して、全ての民を公平に裁く唯一の神のみを礼拝する。教会は対立と不信を基盤とする世のあり方に対抗して、愛と憐れみの共同体であることを実証する。教会は競争原理の社会に対して、共存の原理を示すことによって対抗する。教会は軍事力と同盟に依存して平和をつくろうとする社会に対して、武器によらない平和を提唱することによって対抗する。教会は強い者によって構成される社会において、弱い者の側に立つことによって対抗する」と言っています。