なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(314)復刻版

 
 今日は黙想と祈りの夕べ通信(314)復刻版を掲載します。2005年10月のものです。

 今日は、朝から一日私の裁判支援会の通信発送作業があります。明日の土曜日にまたがるかもし

れません。事務局の方をはじめ協力してくださる方によって、約2,700通の発送作業をします。通

信第9号と別冊2は朝9時から印刷に入ります。通信8頁、別冊8頁です。


        黙想と祈りの夕べ通信(314[53]2005・10.2発行)復刻版

 野宿を余儀なくされている人々の中には、家庭ゴミ集積場に出されたものから、売ってお金にな

るアルミカンなどを拾って生活している人がいます。町で自転車にいっぱいアルミカンを積んでい

る人を見かけることがあると思いますが、多分その人は上記のような人だと思います。最近自治

の中には条例を作って、家庭ゴミの集積場からのゴミの抜き取りを罰則規定のついた違法行為とし

ていく傾向があります。小田原市も昨年12月に市議会でこの種の条例を可決しました。しかし、よ

く調べてみると、この条例が作られるようになった原因は野宿者による抜き取りではなく、会社組

織として資源のゴミを集荷することを生業とする業者が、軽トラを使用し大量にゴミを抜き去った

ことにあるようです。そのために野宿を余儀なくされている人がとばっちりを受けることになると

すれば、業者の心無い行為によってますます社会的な弱者が生きにくくなる社会になって行きま

す。また、このことによって、野宿を余儀なくされている人は、物質的な収入源が断たれるだけで

なく、犯罪者としての目で見られることです。私は、野宿を余儀なくされている人に仕事を提供で

きる社会でありたいと思いますし、もしどうしても仕事を提供することができないならば、むしろ

ゴミ集積場から資源をみなで野宿者を余儀なくされている人に提供するくらいの社会でありたいと

思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方の発言がありました。今日の聖書の箇所(マルコ2:1-1

2)には、心の中で「罪の赦しは神の業であるのに、この人は神を冒涜している」と思っていた律

法学者に対して、イエスは罪の赦しと床を担いで歩くことと、どちらがたやすいか、と言ってい

る。なぜイエスはこの二つを比べて、どちらが易しいかと言ったのか。自分には分からない。イエ

スが一人の人の罪を赦したことが自分たちの目の前で行われたのは、彼らにとって前代未聞であ

る。何事かと思っただろう。神の業である罪の赦しが人間イエスによって行われたわけだから、彼

らはそれを受け入れられなかったに違いない。先日Sさんは、「震災は人々にとって未経験の全く

新しい出来事であった。その全く新しい出来事に向かい合って、教会はそこから宣教のあり方を考

えていかなければならなかった」とおっしゃった。私には新しい出来事が起こったとき、それまで

の生き方とは違った新しい生き方が求められているのに、前のことにしがみつく自分があるように

思う。イエスの罪の赦しを受け入れられなかった人たちと重ねて考えさせられた。

 続いて一人の方からの発言がありました。自分は環境問題がどうなるかが気になっている。オゾ

ンホールが過去最大になったと報道されている。今日も環境問題の集会に出てきたが、会社、企

業、自治体の取り組みについていいことばかり言っていたが、どうなるか? 一個人としてどれだ

け環境問題に取り組めるかというと疑問だ。自分の住んでいるところでも、ゴミの分別収集に協力

しない人がいる。いくら言っても、生ゴミにペットボトルを一緒に入れて出す人がいる。気がつく

と自分が分別しているのだが。車もそうだ。近所のサラリーマンの人は自動車で朝通勤している。

一酸化炭素のことを思うと、公共の交通機関を使えばと思いが。京都議定書に対して自動車王国の

アメリカは一酸化炭素を一番排出しているのに、従おうとしない。それだと、ますますしたいほう

だいではないか。自分の世代だけ生きられればいいのか? 宇宙に逃げればとでも思っているとし

か思えない。

 また別の人から発言がありました。人間の罪って何なのだろうか。聖書の時代病人を罪人と見て

いる。一人の病人を4人の友人がイエスのところに連れてきて病気を癒してもらおうとしている。

エスは4人の信仰を見て、病人に向かって「罪は許された」と声を掛けている。私は病気の人を

罪の故とは思わないし、現代においてはその様な事は理解しにくい。むしろ与えられた命を豊に生

きる権利を奪うものが罪だと思う。戦争や環境問題等を考える。自分たちだけの事を考えている

と、次世代の人に継ぐ環境問題や平和利用といって開発するロボットが人を生かす物でなくなって

いる。人間に代わって銃を撃てるロボットが作られた事をテレビで放映されていた。罪には許され

る罪と許されない罪が有るような気がする。現代社会は戦争、環境破壊とずっと続いてきた地球の

歴史を破壊している。このような事は神の裁きを受けなくてはいけないと思う。そこに生きる自分

の罪を考え続けて行きたい。