なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ヨハネによる福音書による説教(40)「人は他者を裁けない」ヨハネ7:53-8:11

12月3(日)待降節第1主日礼拝   

               

注)讃美歌奏楽はインターネットでHさんが検索してくれました。

 

⓵ みなさん、おはようございます。今から礼拝を始めます。しばらく黙祷しましょう。

(各自黙祷)

② 招きの言葉 「もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ高低のある地は平らになり、険しい所は平地になる。こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。」

イザヤ書40:4-5)

③ 讃 美 歌  151(主をほめたたえよ)

https://www.youtube.com/watch?v=eAWmu34gW2k

④ 主の祈り  (讃美歌93-5A)を祈りましょう(各自祈る)。

⑤ 交 読 文   詩編47編1-10節(讃美歌交読文51頁)

⑥ 聖  書  ヨハネによる福音書7章53-8章11節(新約180頁)

           (当該箇所を黙読する)

⑦ 祈  祷(省略するか、自分で祈る)

⑧ 讃 美 歌    236(見張りの人よ)

https://www.youtube.com/watch?v=j6UggljZ904

⑨ 説  教   「人は他者を裁けない」       北村慈郎牧師 

  祈  祷

 

今日からアドベントに入りますが、17日(日)の待降節第3主日までは、説教のテキストは、ヨハネによる福音書の続きにしたいと思います。そこで今日は8章1-11節の、新共同訳の表題では「姦通の女」の物語から、私たちへの語りかけを聞きたいと思います。新共同訳では「姦通」と訳されていますが、ここでは「姦淫」の訳にしたいと思います。

 

この部分は聖書を見てもらうと分かりますように、〔 〕でくくられています。これは元来のヨハネ福音書にはなかったことを示し、後から加えられた部分を意味します。その説明はここではいたしません。ただこの姦淫の女とイエスの物語は、イエスがどういう方であるかを、よく物語っているものとして、人々の中で広く受け入れられているように思います。

 

先ず1節から5節までを、もう一度読んでみます。

「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者やファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。』」(新共同訳)と、記されています。

 

エスが朝早くオリーブ山を降って神殿の境内に入られたというのは、その日たまたま起こったことではありません。ルカ福音書21章37,38に、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まっていた」と記されています。ですから、イエスエルサレムにいる間、夜になるとオリーブ山に退いて夜を過ごし、朝が来ると神殿の境内に来て、そこに集まって来る民衆に対して、神の国の福音を語っていたのでしょう。このヨハネ福音書8章に書いてあるのは、そういうイエスの生活のある日起こった出来事であったと思われます。

 

そこへ律法学者・ファリサイ派の人々が、姦淫の現場で捕らえられた女を連れて来て、民衆がイエスを中心にして人垣で輪を作っているその輪の真ん中に立たせ、彼女の犯した罪について、イエスに訴えます。「先生、この女は姦淫をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えですか」。このように言ってイエスに詰め寄ります。律法の専門家であり、また特別に律法を守ることに熱心であった彼らの言うことに、決して間違いはありません。姦淫の罪というのは、ユダヤの律法では、非常に大きな罪で、偶像崇拝の罪や殺人の罪と並ぶ重大な罪であったと言われています。レビ記20章や申命記22章には、姦淫の罪に対しての刑罰として、はっきり死刑が規定されています。しかも実際には、その死刑は、石打によって執行されるのがふつうであったと言われています。従って、彼らの言うことは、法的には全く正しかったわけです。

 

しかし、6節前半に、「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」と書いてあるように、彼らのいかにも正しい言葉の背後には、一つの悪だくみがありました。つまり彼らの思惑では、イエスは恐らく、普段の彼の言動から推し量って、この女を殺すことに反対するに違いない。しかし、それは明らかに、モーセの律法に対する違反であります。彼らは、これを材料にして、法廷に訴えることが出来る。しかし、万一イエスが、彼らの推測に反して、この女に石を投げることに賛成されたならば、どうだろうか。その場合には、それは明らかに、イエスの日頃の言動と矛盾することであります。徴税人・罪人の友としての彼のあり方とは、全く矛盾することであります。彼らはそういうイエスの矛盾を、人々の前で笑いものにすることが出来る、また、そのことを材料にして、イエスの名声をおとすことも出来ると、思ったに違いありません。

 

ところが、6節後半から、7節、8節、9節にかけて読みますと、私たちは、この場面が思いがけない展開をしていることに気づきます。すなわち、律法学者・ファリサイ派の人々の厳しい問いかけを身に受けながら、何も答えずに身をかがめて、指で地面に何かを書いていたイエスが、彼らが余り問い続けるので、静かに身を起こして、たった一言、短い言葉を語ります。「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。

 

このイエスの一言で、これまで大きな声で女の罪を罵り、イエスを問いつめていた律法学者・ファリサイ派の人々は、急に沈黙に陥ります。そしてやがて、一人去り、二人去りというふうに、彼らはこの場面から次第に姿を消して行きます。

 

この姦淫の女の物語を、私たちは、何か一つのドラマを見るように自分とは関係のないこととして見物していることはできません。私たちはこの劇に対する見物人ではなくて、私たちこそ登場人物なのだということを、知らなければなりません。何故かというと、この物語が告げている一番大切なことの一つである罪ということに関しては、私たちの間に何の区別もないからです。罪ということが問題になる時には、私たちが横目を使って人の罪を見るということはできないということです。罪というのは、いつも私たち自身の罪だということです。

 

それは罪全体について言えることですが、今ここで問題になっている姦淫の罪ということに限っても、それは私たち自身の罪なのです。この女は、たしかにあらわな姦淫の罪を犯しました。それに対して、律法学者・ファリサイ派の人たちはそういうあらわな形では姦淫の罪を犯してはいません。それゆえに、彼らは、一段高いところから、この女を裁いています。しかし姦淫の罪というのは、果たしてこの罪の女のような特殊な人たちだけの問題なのでしょうか。律法学者・ファリサイ派の人々には関係のない、また私たちにも関係のない罪なのでしょうか。十戒の第七戒には「姦淫をしてはならない」と記されていますが、あれは、この姦淫の女のような特別な人だけに向けられた戒めなのでしょうか。

 

マタイ福音書5章27、28節に、イエスの有名の言葉が記されています。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも(口語訳は「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は」)、既に心の中でその女を犯したのである」。イエスにとって、姦淫の罪というのは、そのように厳しいものです。その場合に、誰が自分は姦淫の罪とは関係がないと言うことができるでしょうか。

 

エスが、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という短い一言を語られた時に、彼の目にはすべての人が罪人として映っていました。そういうイエスの目に映った自分自身の姿こそ、私たちの目が見る自分自身の姿よりも、百倍も千倍も真実な姿であるということを、知らなければならないと思います。

 

しかし、私たちがそのような者としてイエスの前に立つ時に、そして自分自身がそのような者だということを自覚する時に、どのようなことが起こるかということは、次の9節に記されています。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」。

 

女を取り囲んでいた人々は、イエスのあの短い言葉が、鋭いつぶてのように、自分たちの良心に向かって飛んで来て、突きささるのを感じたのでしょう。彼らは、一人去り、二人去り、その場から立ち去っていきます。そして彼らが姿を消した後に、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残ったのです。

 

女もその場を立ち去ろうとすればできたと思われますが、女はその場にとどまっています。それは、なぜでしょうか。井上良雄さんは、「それは、今こそ彼女は、本当に愛すべきものが何かということを知ったからだと、言うことができると思います」と言って、このように記しています。「この女は、これまでの生涯で、いろいろなものを愛して来たに違いありません。しかし今、彼女の前から、それらのものは消え去ってゆきます。そしてただ一人、愛すべき方として、イエスの姿がここにあります。しかし、それだけではありません。彼女は今、ほんとうに畏るべき方を知ったと言うことが出来ると思います。自分を恐れさせていたあの律法学者。ファリサイ派の人々から解放された今こそ本当に、自分が恐れるべき方を知ることができたのです。この方は、あの律法学者・ファリサイ派の人々のように自分を裁こうとはされない。訴えようともされない。むしろ彼は、自分を解放してくださった方です。しかも彼女は、自分を本当に裁き、訴える力を持つ方は、ただ一人、この方であるということを知っています。今彼女は、このただ一人本当に愛すべき方、ただ一人真に恐るべき方の前から離れることができません。また、離れようとはしません。彼女は彼の口から、自分の犯した罪に対しての裁きの言葉がーー断罪の言葉が語られるのを待っています。先程、律法学者・ファリサイ派の人々に対して覚えたのとは全く違った恐れをもって、彼女はここに立っています」。

 

そういう女に対して、10節で、イエスが「婦人よ、あの人たちはどこにいるか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われます。それに対して女は、「主よ、だれも」と答えます。するとイエスが「わたしもあなたを罪に定めない」と言われます。

 

エスが、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われるのは、決して「私はお前の罪を見逃しにしよう。見過ごしにしよう」というようなことを言っているのではないと思います。また、このイエスの「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉が、単に罪との妥協の言葉であるとするなら、これはこの女にとっても、また私たちにとっても、決して解放の言葉ではありません。

 

このイエスの言葉が、罪との妥協の言葉ではなく、罪からの救い、解放の言葉であるためには、この女の犯した罪に対して、また私たち自身の犯している罪に対して、それ相当の刑罰が行なわれなければなりません。イエスが「わたしもあなたを罪に定めない」と言われる場合、実際にそのことが起こっているのです。罪を犯しているこの女や私たち自分の身の上にではなく、この罪の赦しの言葉を語っているイエス自身の身の上においてそれが起こるのです。もちろん、この言葉を語られた時には、イエスはまだ十字架にかかっていません。しかし彼は、やがて十字架にかかるべき方として、ここに立っているのです。そしてこの罪の赦しの言葉を語っているのです。

 

また、井上良雄さんからの引用になりますが、「ですから今、ここに向き合って立っている二人の人のあいだでは――姦淫の女とイエスのあいだでは、不思議な交換が起こっているということができます。女に対して語られるべき断罪の言葉が(「汝は罪ある者なり」という断罪の言葉が)イエスに対して語られ、イエスに対してだけ語られるべき「汝に罪なし」という無罪放免の言葉が、女に対して語られるのです、女の着ている泥まみれの着物が、イエスの上に着せられ、イエスの汚れのない着物が女の身の上に帰せられるという不思議な交換が、ここで起こっているのです」。

 

エスはすべての人のために十字架につかれたました。この場を立ち去った民衆や律法学者・ファリサイ派の人たちのためにも。ただ彼らとこの女の違いは、律法学者・ファリサイ派の人々はイエスから離れて立ち去って行ったのに対して、彼女はあくまでもイエスのもとに留まったということです。そしてイエスの赦しの言葉を聞くことが出来たということです。ただ、そのことだけであります。

 

そういう罪の女に対して、イエスの最後の言葉が語られます。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。彼女が帰ってゆく所は、今までいた罪の世界であり、彼女は罪人として生きるより他はないとしても、彼女は、「わたしもあなたを罪に定めない」というイエスの言葉を、もはや忘れることはないでしょう。彼女は今後、この言葉に支えられて生きてゆくでしょう。もちろん彼女が罪に打ち勝ったと言える日は、生涯来ないでしょう。ただ確かなことは、彼女は、もう十字架がなかったかのように生きることはできないということです。イエスの十字架を知らされた者として、もはや肉を原理として生きることはしないのです。罪を原理として生きることはしないのです。罪の赦しを生きると言うことは、もう罪を犯さないということではなくて、もう罪を原理として生きないということです。

 

私たちがキリスト者であるということは、私たちがどれほど度々、またどれほど長くイエスを離れて生活していても、私たちが帰るべき所としてイエスという方を持っており、イエスに方向づけられて生きているということです。イエスとの交わりの中に生きているということです。

 

もし私たちが、そのようにイエスとの交わりの中にあるならば、私たちの罪との一つ一つの戦いが、たとい敗北に終わっても、罪が私たちの上に主人公として力をふるうことはないでしょう。そしてその場合には、私たちの生涯全体は、勝利の生涯だと言えるでしょう(井上良雄)。

(※この説教は、井上良雄『ヨハネによる福音書を読む』の当該箇所にほぼよっています)。

 

お祈りいたします。

  • 神さま、今日も礼拝を行うことができ、この礼拝に連なることができましたことを、心から感謝いたします。
  • 今日はアドベント第一主日です。主の降誕を待ち望む主日に、姦淫を犯した女とイエスの出会いの物語を通して、罪人である私たち人間の罪を,十字架のイエスが背負って下さり、罪の支配から私たちを解放してくださっていることを、改めて知らされ、心から感謝します。み心ならば、私たちが罪に支配から解放された者として、イエスとの交わりを最後まで生きることができますようにお導きください。
  • そして今なお罪の支配の中で、互いに憎しみ合い、殺し合っているこの世界の現実が平和と和解の世界になるように、少しでも私たちが働くことができますようにお導きください。
  • ウクライナパレスチナに一刻も早く平和が訪れますように。
  • 貧困と差別に苦しむ人々を助けてください。
  • 今日から始まる新しい一週の間、私たちの仲間の一人一人をその場にあってお守りください。
  • 新しい一週の全ての人の歩みを支えて下さい。
  • この祈りをイエスのお名前を通してみ前に捧げます。  アーメン。

 

⑩    433(あるがままわれを)

https://www.youtube.com/watch?v=rSbwclbXCKU

⑪ 献  金 

⑫ 頌  栄  28                                                       

http://www.its.rgr.jp/data/sanbika21/Lyric/21-028.htm

⑬ 祝  祷

  主イエス・キリストの恵み、神の慈しみ、聖霊の交わりが、私たち一同の上に、また全ての人の上に豊かにありますように。     アーメン                      

⑭ 黙  祷(各自)

これで礼拝は終わります。