なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(8)

マルコ福音書による説教(8)
 
「起き上がる」 マルコによる福音書2:1-12、
列王記下4:18-37
            
  この前、私達は1:40-45の「一人の重い皮膚病を患った人の治癒」の出来事において、イエスの人格の秘密にふれて考えさせられました。イエスはひとりの病人の前に、神ご自身のごとく力ある方として立っている反面、そのような彼ご自身の偉大さを、そのものとして人々が吹聴するのを厳しく戒められました。それは、あのゴルゴダの十字架への道行きに示されているイエスの道ゆき、まさに只の人として、神と隣人の前に徹底的に服従の生を貫いたあの十字架を抜きにして、彼の偉大さを語ることは許されないからです。
  さて、今日は、2:1-12の「中風患者の治癒」から、メッセージを与えられたいと思います。最初にこのテキストでどのようなことが語られているのか、もう一度振り返ってみたいと思います。ここに登場してくる人物は、イエス、群衆、中風患者、四人の友人、律法学者たちです。1-4節で、この出来事がどのような状況で起きたかが述べられています(状況設定)。それによると、1:38・39に記されているように、カペナウムを離れて、「近くのほかの町や村」で宣教されていたイエスと弟子たちが、「数日後」(2;1)、再びカファルナウムに帰ったとき、イエスが(誰の家かは不明ですが)「家におられる」という噂が立ち、そこに「大勢の人が集まったので、……戸口の辺りまでも、すき間もないほど」になった、とあります。
  マルコによる福音書の著者は、イエスの弟子たちが行くところに、多くの群衆が集まってくるという情景を好んで用いています。生前のイエスの活動の一断面として、事実そのようなことがあったと考えてよいと思いますが、そのことをマルコ福音書の著者は特に強調することにより、イエスが金持ちや支配者たちにではなく、名もない民衆(群衆)と共に生きられた方であることを示そうとしていのです。言い換えれば、イエスがおられるところに、様々な重荷を負って苦しむ人々(病人、罪人、悪霊につかれた者)が、集まってきたということです。
  当時、ガリラヤの民衆は、ロ-マとガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスによる二重の搾取を受けて疲弊していました。そのような群衆がイエスのまわりを取り囲んでいました。だがしかし、そのような群衆の一人一人とイエスとの間に交流が成立していると、単純に考えることはできません。彼らの人間的な願望-その中には政治的メシヤとしてイエスに期待をかけていた者たちもいたであろう-が、即イエスによって受け入れられることはないからです。イエスは、そのような群衆一人一人を真実に大切に思われていたに違いないのですが、イエスのその思いは彼らの人間的な願望を真正面から受け止めながら、より深く、彼らさえ気づき得ない彼ら自身の困窮へと注がれているのです。
  群衆に向かってイエスが言葉で語っておられたとき、四人の友人によって中風患者がイエスのもとに運ばれてきました。ところが戸口まで人が一杯だったため、入口から入ることが出来ず、屋根に回り、ちょうどイエスがおられると思われる所に穴をあけ、中風患者を床のまま釣り降ろしたというのです。パレスチナの家は、今日の私達の家とは大分違い、屋根は簡単に「しっくい」で出来ていて、穴をあけても簡単に修理できました。ここから私達は、イエスの存在が四人の友人の行為を呼び起こすほどに大きかったことを読み取ることが出来ます。どんなに四人の友人が中風を患っている友のことを思っていたとしても、イエスの所に連れて行っても、この中風の友人が癒され慰められることが全く不可能だとすれば、わざわざ病人の友人を運んで行くことはなかったでしょう。だからこの四人の友人の行為はイエスの存在によって引き起こされたものだと考えられます。田川建三氏は5節のところを、「イエスは彼らの信頼感を見て…」と訳しています。つまり、ここにおいて、イエスが人間に信仰を呼び起こす信頼に満ち満ちた方であるということが暗示されているのです。ヨハネによる福音書の言葉を借りれば、「めぐみとまこととに満ち」たもう方こそ、イエスなのです。
  以上のような状況設定の中で、イエスは中風患者に向かって、こう言われました。「子よ、あなたの罪は赦される」- イエスはこの見ず知らずの病める中風患者に向かって、「子よ」と呼び掛けました。何と親愛に満ちた、温かい呼び掛けでしょうか。このイエスの言葉における「罪」は、個々の行為としての罪過をさしているのではありません。個々の罪過が生ずる根とての「まとをはずしている」人間存在そのものを指しているのです。中風患者が何か悪いことをしたら、或はその先祖の罪が、その結果として、つまり因果応報として、彼が病気になったとする考えを、ここに当てはめることはできません。イエスの「あなたの罪は赦された」という言葉は、中風という病気で苦しむ人間から、その身体的、精神的な苦痛さえ取り除けば、それで健康な人間に回復するというわけにはいかないのだという意味合いが込められています。もっと根底から人間の危機が明らかにされているのであります。つまり、この言葉は、中風患者に向かって「お前は神と隣人に対して正常な関係に回復されている」といっているのです。神と隣人に対する正しい関係を、己を第一として、そのことによって倒錯した関係に陥っている人間。そこからすべての人間の悲惨・困窮が引き起こされるところの根が、神の力によって断ち切られ、正しい土台に据えられたということが、この宣言の意味なのです。
  そのような意味で、「罪の赦し」は、わたしたち人間を真実な人間として立たしめる絶対に不可欠な出発点なのです。しかし、わたしたち自身の感性や理性によっては、この絶対に不可欠な出発点に気づくことは出来ません。そこに人間の最大の悲惨があるとも言えます。そこで、わたしたちは己れ自身を根底から問うことをせず、無自覚、無前提に得体の知れないどろどろした己れから出発するのです。必然的に己れの欲望と高ぶりは、隣人を己の所有物とせずにはおきません。そのような己れと己れのぶつかり合いから生まれるのは、敵意、憎悪、争い、不和…であります。しかもそのような力によって苦しむのもわたしたち自身なのです。自ら生み出した果実によって、自ら苦しまざるを得ないという矛盾の中にいながら、それを克服する道を、自分自身の側には持っていないというところに、人間の悲惨の深刻さがあります。そのことは、個人の場合でも、集団の場合でも、基本的に変わりません。
  エスの「子よ、あなたの罪は赦される」という言葉の意味は、このような文脈の中で初めてよく捉えられるのではないでしょうか。つまり、罪の赦しとは、人間存在の根本的変革なのです。それを、個々の犯す罪科がイエスによって赦される事としてだけで理解するのは、罪の赦しの矮小化になります。十字架による贖罪は、新しい人間の誕生です。己を第一とする古き人間に別れをつげ、神と隣人との交わりに生きる新しい人間性の獲得なのです。イエスの十字架による贖罪は、あの神と隣人に向かって徹底的にその関わりに生きたナザレのイエスという人間性が、われわれの人間性となったということなのです。
  今日のテキストは、そのこと、つまり「子よ、あなたの罪は赦される」と、イエスによって語りかけられた中風患者に向かって、同時に、11節で、イエスが「わたしはあなたに言う。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい」と言われていることが重要です。つまり、罪の赦しは目に見える形で、病める人間を健康体にするということです。この部分の構造に注意してみますと、中風患者に直接語られているイエスの言葉はこの二つです。この二つは密接不可分に結合しています。
  ところで、今日のテキストは、そのようなイエスと中風患者の問答を中心として、二つの対応の仕方が、律法学者と群衆によってなされています。7節のところでは、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったい誰が罪を赦すことができるだろうか」と言われています。これは、ユダヤ教的な考え方で、ユダヤ教では、メシヤでも罪を赦すことが出来ず、ただ神のみが罪を赦す力がある、と信じられていました。つまり、律法学者は、イエスに躓いたのです。
  もう一つの群衆の態度を見ると、12節後半-「人々は皆驚き、神を崇めて、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」とあります。
  エスの「罪の赦し」が起こるときには、そこにおいて神が具体的にわたしたちと関わりたもうということを、今日のテキストは示しているのです。そして、それに対する人間の応答は、二つしかありません。律法学者のようにか、群衆の一人のようにかです。今日この聖書を通してわたしたちは、中風患者に向かって、「あなたの罪は赦される」と語りかけるイエスに、「起きて、床をかついで、家に帰りなさい」と語りかけるイエスに出会うのです。イエスによってわたしたちの存在そのものが、根本的に変革せしめられているという事実を、われわれは、この箇所を読むときに、想い起こすことが許されているのです。
  それは、徹底的にわたしたちの存在が神に受け入れられているということです。神に本当に大切にされている者。罪赦されている者。イエスと共に、神我らといましたもうという神の国の一員として立つことが許されている者。ヨハネの黙示録の著者が、21章で、「新しい天と地を見て」次のように語っている神の現実、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その人の神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と語り、「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたいはその者の神になり、その者はわたしの子となる」と語っている、そのような者として今在るということなのです。「罪が赦される」ということは、そういうことなのです。
  根本的な神による人間解放、人間回復が私たち一人一人のところまで到達しているというメッセージとして、この物語を読むことができると思います。