なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨とその作品(10)

父北村雨垂とその作品(10)
 
「経験と私」(この部分修正加筆が多い)
 
経験と私 抽象の飛沫 浴びる心臓の悲劇
経験と私 分裂の孤獨 舌に 轉がす
経験と私 黒い矛盾を 天心に描く
経験と私 エネルギーから夢の質量
経験と私 明日の嬉びと 悲しみを
経験と私 場の限定がない 悲劇の圓心
経験と私 觸覚の生理と 静かに激突する分裂
経験と私 発情の人と 清談する分裂の分裂
 
「貨幣と私」
 
貨幣と私 懐ろの子達を呪う 辯証のろうごく
貨幣と私 群集嘆く 孤を心臓が嗅ぐ
貨幣と私 ピエロの衣装を 存在が拾う
貨幣と私 分裂の對立を換算する法庭 
貨幣と私 凍結した血が沸騰した認識
貨幣と私 未だ見ぬ天を描く分裂の楽園
貨幣と私 背負う悲劇が 米麦を炊く
 
「感情と私」(修正加筆だらけの原稿の上に完成稿が一枚の薄紙に書かれて貼り付けてあります。以下は完成稿によります。)
 
感情と私 語る心臓は言葉を否定するもの
感情と私 作者の分裂を抹殺を企むもの
感情と私 空間と時間は有が創造するもの
感情と私 プリズムの在り方を分裂が証明するもの
感情と私 空間と時間が無を創造するもの
感情と私 創造した零に泣いたり笑ったりするもの
感情と私 炉の熱源は分裂の分裂なるもの
感情と私 存在は肯定も否定もないもの
 
「家と私」
 
家と私 分裂と分裂の抱ように存在を描く
家と私 系譜の郷愁に 黙って心臓に描く
家と私 盲目の意志の 城郭であった時間
家と私 孤獨の阿片と 蜂蜜を貯えた空間
家と私 自我の完成を否定して時間を黙認した
家と私 倦怠と焦燥の天国の認識を固執した
家と私 不信の自然へ 絶えず だ協した
家と私 同質の中の異臭の分裂を隠してゐた
 
 私が小さい頃、父が家にいるのを見たことは殆どありませんでした。薬の中卸でしたので、小売店の接待やら、逆にメーカーからの接待を受けて、家に帰るのは夜中だったようです。その頃のメーカーの接待は相当のものだったようです。父の勤めていた薬の仲卸は武田製薬との関係が強かったようで、その接待ではなかったかと思いますが、私も小さい頃数回両国の国技館に大相撲を見に連れて行ってもらったことがありました。マス席で次々に美味しい食べ物が出てくるのには驚きました。そこで食べた焼き鳥は長い間忘れられない思い出でした。父の会社が小売店の人を接待する時には、温泉に連れて行ったようです。その宴会では、小売店の接待客を差別できずに、何十人の一人一人のところに回ってお猪口のお酒を飲み交わすので、それをする前におにぎりを食べたそうです。時には、それでも飲みすぎて風呂場で裸のまま寝てしまったこともあったようです。
 私の小さい頃は、川柳家としての父の面影は全く感じられず、ひたすらに商売人の父だったように感じていました。しかし、小学校高学年から中学生になる頃には、私は密かに父は商売人としては適任者ではないように思っていました。案の定、父が責任を負っていた薬の中卸の会社が倒産した時には、人任せにしていた経理も商品管理もめちゃくちゃだったようです。働いている人の中には薬を横流しして自分の懐に入れていた人もいたようです。そんな父が、85年の人生のうちで一番よかっただろう時期は、脳溢血で倒れて半身不随の状態でしたが、晩年の約15年間だったのではないかと思います。ベットの上ですべて自分の時間を自由に自分で使うことができ、幸い右半身は自由でしたので、書くこともできましたから、本を読み、句を作ったり、それまでの句をまとめたりすることができたからです。
 そんな父の上記の「家と私」は、何となく否定的な感じのする句のように思われます。