なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(170)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(170)」復刻版を掲載します。


         黙想と祈りの夕べ通信(170-13]2002.12.29発行)復刻版


 今日のクリスマス礼拝ではマリアの受胎告知のテキストを説教で取り上げました。この個所は、「処女

降誕」に関わるところで、以前岸本牧師も説教で取り上げ、説教集『葬りを越えて』の中にも収められて

います。教会の教義として解釈されてきた処女降誕や聖なるマリア像ではなく、貧しい無力な娘マリアの

人々から非難されるような形での懐妊において、無力な神が弱さをもってこの世の力に挑戦する出来事と

して、この箇所を解釈していました。そしてマリアと同じような取るに足りない私たちにも受胎告知が神

によって告げられていると。マリアの受胎告知の記事を考えながら、もしこの物語が完全な創作であると

するならば、なぜイエスの母にマリアのような女を選んだのか、その理由は十字架に極まるイエスの生涯

からきているのではないかと思いました。もしイエスの誕生即イエスの十字架であるとすれば、今年とい

う状況の中でも、否この時にこそクリスマスを迎える意味が大きいのではと思い、自分の中では今年も心

からクリスマスを迎えることが出来ました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方が発言しました。今日の説教を聞きながら、幼い時マリアには崇高

なイメージがあったが、山手カトリック教会あるマリア像を見たときには、蛇を踏みつけているカリアだ

ったので、これは一体なんだろうか、崇高なマリアのイメージとは異質なものを感じた。マリアについて

は何年か前にフェミニスト神学の会で発表したことを思い出した。崇められたマリアに対して、マリア自

身はやめてくださいよ、と言うのではないだろうか。息子イエスが十字架刑に処せられた政治犯であると

すれば、マリアは肩身が狭かったと思う。マリアを人間としてとらえることによって、崇拝の対象ではな

く、ダイナミックなマリアのイメージを得られるようになったと思う。今日の礼拝では、洗礼式などのと

きに神を「父」と表現することが多かったが、「父」という言葉が引っかかってこれは何だろうかと不思

議な体験をした。マリアについてはもっと学んでいきたいと思っている。

 別の方からも発言がありました。今日は洗礼式が礼拝であり、訳20年前に自分がやはりクリスマスに洗

礼を受けたことを思い出した。浸礼だったので冷たかった。ここ数年自らしく生きるにはどうしたらよい

か考えながらやってきた。その流れの中で教会の絶対平和主義を批判しても来た。今日は洗礼式の時に日

本基督教団の信仰告白を唱和したが、自分は一緒に唱和できなかった。信仰は自分と神との関係だが、そ

こにおいて自己が肥大して神とぶつかる面があるが、その根底には痛みや悲しみの共有があるように思

う。もし転勤して他の教会に出席することがあった場合、教団の信仰告白を受けいれられないとか、教会

の絶対平和主義を批判したりとか、未受洗者の聖餐式を可とするなどと言って、展開できるだろうか。笠

原芳光氏は、ルカは社会の最底辺で生まれたイエスの誕生を描いた。マタイはきらびやかなイエスの誕生

を描いた。最も古いマルコには誕生物語はない。クリスマスはどこに来るのか。町の遠くで教会に行くこ

とができないで働いている人たちのところに来る、と言う。教会への批判があるが、何となく救いがある

ように思う。

 また伝道師からの発言がありました。今日は一日喜びに包まれたクリスマスを過ごせた。一昨日ニュー

スでホワイトハウスのクリスマスツリーの点灯式が聖歌隊の歌と共に放映されていた。この点灯式を見

て、痛みを感じている人も多いと思う。すべての喜びが主観的であるように、クリスマスの喜びも主観的

である。キリスト教世界のアメリカによって苦しめられている人々が多いこの世界を考えると、ホワイト

ハウスの点灯式は単純に喜びとは言えない。自分の主観を越えて出来事そのものを見つめる必要がある。

 もう一人の方は、久しぶりにこの集いに参加された感想に加えて、礼拝で感じたことを二つ。一つは礼

拝が終わった後の玄関ホールの混雑を何とか改善できないかという提案。もう一つは、礼拝司会者のアナ

ウスについて、司会者の献金聖餐式のコメントは、会衆の立場からすると強制に聞こえるものがあり、

司会者はコメントを加えずに淡々と進行してもらいたいという意見である。

 今日の黙想と祈りの夕べは、2002年の最後です。新しい年も皆さんの上に神の導きをお祈り申し上げま

す。


       「謙そんを愛する」(『ルターによる日々のみことば』より)

  主は高くいらせられるが低い者をかえりみられる。  詩編138:6

 ここに描かれている神の姿は、いかに特徴的なことでしょうか。神は見おろされるかたとして、まこと

の性質をわたしたちに知らせておられるのです。神は見上げられることはありません。神の上にはなにも

ないからです。神は横を見回すことができません。ご自分にならぶものはなにもないからです。ですか

ら、神はご自分の下を見下ろされるだけです。それゆえ、あなたの居る場所が、低く、いやしくなればな

るほど、あなたをごらんになる神のまなざしは、いよいよ輝きます。

 ひとことでいえば、この聖句は、神が、低くいやしめられたものを見おろされるという表現から、神の

本性を正しくわたしたちに教えているということができます。神が低いものを見おろされることを知って

いる人は、神を正しく知っている人です。このような知識から、神の愛と、神にたいする信仰が湧き出

て、それにより、よろこんで自分を神にゆだね、神に従うようになります。

 まことに謙そんな人は、謙そんの結果を考えません。ただ、くだけた心をもって、ひたすら低いものを

みつめ、よろこんでそれとともに生活し、自分自身の謙そんには気づきません。しかし、偽善者は自分た

ちのほまれが、なぜいつまでも途中でぐずついているか疑います。そして、彼らのかくれたいつわりの誇

りは、謙そんの道に満足しません。彼らのおもいは、ひそかに高く高くあがってゆきます。それゆえ、ま

ことに謙そんな魂は、自分の謙そんに気づかないのです。もしそれを知れば、自分のうちにある気高い徳

に気づいて高ぶることになるでしょう。彼のおもいと心と感覚のすべては、低いものにすがりついていま

す。目の前にあるのは、いつもそれだけだからです。低いものは、彼とともにある表象であって、それを

目で見ている間、彼は自分自身にそれをつけることもできないし、一方では、自分の姿に気づくこともで

きないのです。

                             1523年の説教から