なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(159)

 今日は「父北村雨垂とその作品(159)」を掲載します。

            父北村雨垂とその作品(159)
  
  原稿日記「一葉」から(その42)

  難解性の問題について(5)(1月16日に続く) 

              川研 239号(1969年[昭和44年]11月)、240号、241号発表

  
 季刊「芸術」五號で山本太郎氏は「詩人に残された仕事」の中で〈言葉がその論理性に服従する傾向は

ソネット風の作品を書く場合の谷川俊太郎にもはっきりとみとめられる〉として

 岩が空と釣り合っている

 詩がある

 私には書けない


 沈黙を推敲し

 言葉に至る道はない

 言葉を推敲し

 この沈黙に至らう

 樹の形して

 樹は風に鳴っている

 それはどこの風景でもいい

 見える通りに感ずるなら

 すべては美しく輝くだらう

 見える通りに書けるなら

 時はとどまるだらう


 と谷川氏の〈旅〉の連作のひとつを擧げている。また、


 私は言葉を「物」として選ばなくではならない

 それは最も少く語られて

 深く天然のように含蓄を持ち

 それ自身のうちから咲いて

 私をめぐる運命のへりで

 暗く甘く熟するようでなくてはならない


 と尾崎氏の〈言葉〉という作品を擧げている。私たちの川柳では、上記のような自由に多くの言葉を使

うことは許されぬ宿命を負うところの前述のトルソのように考えられる短詩であるところに困難があり、

またそれだけにこの困難を超克するところの喜びも、楽しさもある。また山本氏はそこで、

〈僕はいまリンカクを拒む詩に魅力を感じている。言葉の曖昧さこそ武器である。それを幾層にもかさね

るフォルムが作れれば曖昧さはたしかに詩というとらえがたいものの所在を暗示する力になり得ると思

う〉と語ている。ここには短詩として川柳や俳句の作家にきびしくたちふさがっている砦を乗り超える

〈いとぐち〉があるように考えられる。また短詩作家は、その表現すべき衝動を語らせないこともあら

う。語るのではなくて、言葉を道具として〈物〉として、つまり素材として組みたてる以外に表現の方法

が考えられないと考えるものである。そこにいわゆる難解という困難な問題が影のように従いてくる可能

性がある。むしろ必然性に近いものがある訳である。

しかし現代作家の救いとなる一節もある。というのは作家はその作品の鑑賞者を限定し、理解者を特定の

人々に指定することを暗に指定している。それは明確に〈誰々〉と指名するのではなくて、それを理解出

来るであらうところの〈誰々〉を構想することである。こうした誰々を作家は作品すると同時に、或は無

意識的に意識しているのではないであらうか。そこに指向された階層以外の ― 或は以下と云ってもよ

い ― 人々には難解と云う、「断層」と云うか、或は「壁」が作品と鑑賞者との間に生起する原因では

ないかと考えられる。かつて或る哲学雑誌に中央大学木田元氏が発表した「現代哲学と芸術」という論

説で〈現代哲学が芸術に寄せている関心にはどこかこれまでにない異様な真剣さがある〉として〈例えば

ハイディッガーは芸術を存在者の存在の開示として把え、美に眞理が現成するひとつの様式を見ている

が、そこではすくなくとも従来の美学的な問題設定が明確に超えられ、芸術との対話がそう云ってよけれ

ば、第一哲学の領域で提起されている〉と云っている。詩はいわば言葉の芸術である。言葉による芸術で

ある。詩人がその言葉を素材として表現する以上私には甚だ注目に価する言葉として響いてくるのであ

る。さてすでに紙数もつきたようである。結論は次にゆづることとする。 

                            1980年(昭和55年1月24日了

                               (続く)