なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(169)復刻版

 昨日から今日にかけて、連れ合いの叔母の葬儀が仏式でありました。今日夕方鶴巻に帰り、これから私

の裁判支援会通信第5号の発送が明日藤沢でありますので船越に行き、その準備をします。今日は遅くな

りましたが、「黙想と祈りの夕べ通信(169)復刻版」を掲載します。


       黙想と祈りの夕べ通信(169-12]2002.12.22発行)復刻版


 今日は、私はボーとしていますので、パスしますから、気づいたこと、祈りの課題など共有したいこと

がありましたら、どうぞお話し下さいと、私が発言しましたので、伝道師から以下のような発言がありま

した。今までのクリスマスの時期には、ワクワクするものがあったが、今年はそういうワクワク感はな

い。しかし伝道師としての立場にあるからだろうか、仕事をこなしていくことに追われているようである

が、今までとは違った充実したクリスマスの感じがある。昨日家庭集会でも話したが、以前痛めた膝(半

月板損傷)の具合が悪く、最近カイロプラクティックに行った。今までは痛めた膝の足の方が数センチ長

かったが、治療してもらったら、逆に短かった方が数センチ長くなった。痛めた膝の方の足をかばって歩

いていたので、健康な方が短くなっていたのだ。ところが、そうなると、今度は今まで痛くなかったとこ

ろが痛み出してきて参っている。この自分の小さな体験から気づかされたことがある。それは、本来の

姿、自分を直視するということは、今まで気づかなかった「自分」を見ることにより、今まで感じなかっ

た痛みがあるということである。足の長さが逆転して、今まで痛く感じなかったところが痛くなって、そ

ういうことがあるのではないかと気づかされた。今までとは違うクリスマスだが、今年も主の降誕を心か

ら迎えたい。

 続いて一人の方の発言がありました。私も伝道師のように、クリスマスをゆっくりと味わう余裕が無


く、今日は特に日曜学校のクリスマス祝会があったが、忙しく過ごして疲れを覚えていたが、今は終わっ

てホットしている。準備で疲れを覚えている時に、子どもたちの無垢な笑顔でその自分の疲れが飛んでい

くのを感じる。以前「サンタクロースの部屋」という物語を読んだことがある。子どもたちの中には、小

さいときからサンタクロースなんかいないと割り切っている子もいるが、クリスマスにサンタクロースが

やっていきて、プレゼントをくれるのを心待ちにしている子どもたちも多い。そういう夢を持つというこ

とは大事なことだと思う。何でも合理的に考えるのではなく、心の中には非合理ではあるが、夢のような

ものをもって生きていくということは、人間としても大切な生き方ではなかろうか。今日も子どもたちの

クリスマス祝会で、Oさんが扮するサンタクロースが子どもたちにプレゼントを渡してくれた。そのOさ

んが扮するサンタクロースを眺めている子どもたちの輝いた笑顔は大変素晴らしかった。この子どもたち

の笑顔で、自分の疲れもいっぺんに飛んでいくように思った。

 日曜学校のクリスマス祝会の前に、スライドと歌によるペイジェントが会堂で行われました。今年は前

もっての準備がなかなか出来ませんでした。子どもたちが一堂に集まることが出来なかったからです。そ

れでも、前日にはスタッフで講壇上にスライドを映し出す幕を設置したりして、当日を迎えました。前日

台本に即して練習したスポットライトの電球がペイジェント途中で切れてしまうハプニングに見舞われな

がらも、何とか終わることができました。ペイジェントの出来栄えよりも、それぞれ課題を抱えてそれな

りに忙しい子どもたちが、みんな揃ってペイジェントをすることができたこと、そして楽しい祝会を持て

たことを感謝したいと思います。

 12月22日(日)はクリスマス礼拝です。私たち自身新たなクリスマスとの出会いを経験することが

できれが幸いです。



       「さあ、主にお会いしよう」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
   「腰に帯をしめ、あかりをともしなさい」    ルカ12:35


 旅に出る者は、長くて広い衣服を脱がなければなりません。又、腰に帯をしめなければなりません。な

ぜならキリストは、このようにおっしゃっているからです。「競技のためによく準備して、注意していな

さい。あかりを手にともしていなさい。かしこく、かつ、巧みでありなさい。たしかなものは何もないか

らである。死はあなたの家にやってくるが、その時はいつかあなたにはわからない。いつまでも生きるか

のように働きなさい。しかし、今、死につつあるかのような心でそうしなさい」。これが花婿であるキリ

ストを待ち望みつつ生きるわたしたちが、腰に帯をしめるまことの意味です。しかし、このようなすすめ

は、わたしたちを地に伏せさせ、悔い改めにいたらせます。なぜなら、だれひとりして心から喜んで主の

日を待ち望めるほど、十分に準備のできている人はいないからです。わたしたちは、最も邪悪な敵、すな

わち、肉を心から愛し、死ぬことを望みません。

 そこでもし、このように腰に帯をしめているかどうかわからないならば、あなたの神に向かって叫び、

心からの嘆きをあらわしなさい。そうすれば、神はあなたを許されます。これに反して、みことばを軽蔑

し、自分自身にたよるものを神は許しません。たしかに神は彼らの邪悪さを悪とみなされます。神は弱さ

を許されますが、よこしまと侮辱は許すことができません。それゆえ、腰に帯をしめ、十分な備えをしよ

うとしていなかったことを認める人は、神にすべてを告白し、帯をしめることができるよう助けを求めて

祈りなさい。そうすれば神はその人をゆるし、豊かな助けを与えてくださいます。

                          1537年の説教から