なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

マルコ福音書による説教(61)

   マルコ福音書による説教(61)、マルコによる福音書14:43-52、
       
・前回、私たちは、イエスゲッセマネの園で「わたしは死ぬばかりに悲しい」(14:34)と言って、「血の滴りのように汗をポタポタ流しながら」祈られた記事から学びました。その同じゲッセマネの園に、イエスが祈り終えて、「まだ話しておられたとき」、イエスを裏切った弟子のイスカリオテのユダによって導かれて、イエスを逮捕しに来た人々が、ドカドカとやってきました。彼らは、彼らが来る前に、ゲッセマネの園でイエスと三人の弟子たちにおいて何があったのか知ろうとも思わなかったでしょう。彼らはイエスを捕まえることしか考えていなかったでしょう。

・イエスがあれほど苦しんで祈られたことは、彼らにはどうでもよかったのです。彼らはそんなことには無関心でした。彼らは当局者の命令によってイエスを捕まえてこいと言われたことにただ従うだけでした。今自分たちが命令によって捕まえようとするイエスが、どういう方であり、どんなことをお考えになり、どんな風に苦しんでおるのかということなどを思い巡らす余裕など、彼らの心にはありませんでした。彼らは当局者の命令によって動くだけでした。その命令が何を意味するのかを、自分で吟味検討して、自分がその命令に従うことが適切なことなのかどうかということを、自分で判断することも、彼らはしなかったかも知れません。当局者の発する命令が彼らには絶対だったのでしょう。そういう風に当局者の命令を絶対として受けとめる限り、彼らにとってイエスは逮捕する目標であるに過ぎません。イエスは犯罪者であり、逮捕されて、裁判にかけられて、処刑されるべき者なのです。イエスは、自分の弟子の一人、イスカリオテのユダによって導かれてやってきた、「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした」そのような群衆によって逮捕されたというのです。イエスはそのような群衆に、「まるで強盗にでも向うように、剣や棒をもって捕まえに来たのか」(14:47)とおっしゃったとあります。

・彼らをゲッセマネの場所に案内した、イエスを裏切ったイスカリオテのユダは、「愛する教師に対する尊敬と愛情のしるし」であった挨拶の接吻をもって、群衆に、その人を彼らが間違わずに逮捕すべきイエスであることを示したというのです。弟子の一人から、そういう仕打ちを甘んじて受けざるを得なかったイエスの悲しみはどんなであったでしょうか。

・そしてまた、イエスと共にいた弟子たちはどうだったかと言いますと、「(彼らは)皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)のです。51節、52節に記されています「一人の若者」についての小さなエピソ-ドは、「素肌にまとっていた亜麻布を捨てて、裸で逃げた」と描くことによって、「生命からがら」弟子たちが逃げ去ったという、その場の雰囲気を強めているのでしょう。危険が及んだとき、自分の生命を第一に守るのは当然であるとしても、逃げ去られて、その場に一人残されたイエスにとって見れば、悲しみ以外の何物でもなかったに違いありません。

・そういうイエスの逮捕の場面で、一つのパップニングが起こりました。「剣や棒をもってイエスを捕まえに来た群衆」が、「イエスに手をかけて捕らえた」とき、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を落として」(14:46-47)しまったのです。「剣には剣を以て対する」ことは、イエスの望むところではありませんでした。イエスは、ご自分が逮捕されるというときに、このようなイエスの意に反する、「彼に同情を寄せる不手際な傍観者以上の人を、持たなかった」(E.シュヴァイツア-)のです。

・このイエス逮捕の記事は、孤独なイエスの姿を浮き彫りにしているように思えてなりません。それはこれから続く一連の、裁判や処刑の場面を貫くイエスの孤独であります。しかし、そのイエスの孤独な姿は、実に毅然とした印象を、福音書の受難物語を読む者に与えるのではないでしょうか。

・今日の記事は、イエス逮捕の場面です。逮捕は捕まえられることです。説教題は「捕縛」としました。捕縛は、国語辞典では「捕らえてしばること」と説明されています。縄を身体にかけられ、捕らえられることは自由を失うことです。イエスはここで、逮捕され、捕縛されたのです。イエスは捕縛されて、身体は確かに自由を失いますが、人格としてのイエスは、決して捕縛されてはいません。イエスは恐ろしい位に自由です。むしろ、そういうイエスに対して、捕縛されているのはイエスを捕らえに来た人々であり、弟子たちであるのではないでしょうか。彼らは、身体は自由です。捕縛されてはいません。けれども、彼らは、真に神から与えられた自分の命を生きているでしょうか。そういう意味において、彼らの人格は自由でしょうか。 当局者の命令でイエスを捕らえにきた群衆は、かけがえのない自分を生きている訳ではありません。むしろ、自分を殺して権力者の使い走りを引き受けているのです。彼らは権力者を恐れていたのかも知れません。金をもらってそうしているのかも知れません。権力への恐怖からくる権力者への迎合にしろ、功利的な行動であるにしろ、決して彼らは自由ではありません。 そういう意味において、「捕縛」ということからしますと、どちらが捕縛されているのか分かりません。捕縛されたイエスではなく、イエスを捕まえにきた群衆であり、逃げ去った弟子たちこそ、捕縛された人間であるように、私には思えるのです。

・では、無抵抗で人々に逮捕されるイエスは、イエスを逮捕させるためにイスカリオテのユダを買収して、イエスを裏切らせ、群衆を動かしたこの世の権力を代表する当局者たちに敗北したのでしょうか。「逃げ去った」弟子たちは、たしかに敗北してしまいました。権力を恐れたからです。イエスが捕らえに来た人々から逃げなかったのは、逃げられなかったというのではなく、人間を支配する権力の恐れから自由であったからです。

・イエスはマタイによる福音書10章26節以下で、弟子たちにこう語りました。「人々を恐れてはならない。…体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオン(一デナリオンの一六分の一)だが、その一羽さえ、あなたがたの父(神)のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

・イエスは恐れるべき方を真に恐れていましたので、彼を逮捕する人々を恐れることはなかったのでしょう。ゲッセマネの祈りは、その恐るべき方、自分の髪の毛一本までも数えていてくださる方が、受難と死というイエスの十字架への道行きにも共にいてくださることの確認ではなかったのでしょうか。祈りはじめた時のイエスは、自分の目の前に予想される苦しみは、神から見捨てられることではないかという不安で一杯であったのでしょう。けれども、祈り終わった後のイエスは、自分の目の前に予想される苦しみは、神によって担われている苦しみ、そこにも見捨てたもうことのない神が共にいまして、自分と共に苦しむ方であることを悟られたのでしょう。逮捕・捕縛においてもイエスが自由でありえたのは、ここに秘密があるのではないでしょうか。

・イエスはこの世の権力に敗北していません。イエスは沈黙において抵抗しているのです。逮捕・審問(裁判)・ペテロの否認と、イエスを襲う孤独の中でイエスは耐えているのです。とりもなおさずイエスの敵対者や弟子たちが自分たちの権益や自分を守るために、イエスを殺そうとしたり、イエスから逃げ出したりして、その関わりを一方的に断ち切って、自分だけを立てようとする傲慢に耐えているのです。耐えることによって、そのような人々の在り方と対決しているのです。もしイエスが、彼の敵対者や弟子たちと同様、自分を立てることによって、彼らと対決していたとすれば、イエスは彼らと基本的には何も変わりませんでした。敵を愛する愛を説き、和解と平和をもたらす神の国の到来を告げ、この世の支配よりも神の国の優位を説いたイエスが、敵対者や逃亡者への憎悪に燃えた者としてしか立ち得ないとするならば自己矛盾以外の何物でもありません。

・このような苦難に直面して、敵対者や弟子たちを攻撃するのではなく、神に向って祈り、イエスご自身の苦難を担いたもう神が、敵対者や逃亡者の行為の結末を引き受けているが故に、イエスは孤独に耐えられるのではないでしょうか。神にとっては他者である私たち人間がどのような行為をとろうが、そのような私たちの側の態度によって、交わりを自分からは切らないこと、すなわち、人間の憎悪や逃亡によっても断ち切ることの出来ない絶対的な関係を結ぶ者として、神は苦難のイエスにおいて「神われらと共に」いましたもうのです。そしてイエスは、その神にあって孤独を耐えているのです。それがイエスに与えられた道だからです。

茨木のり子の詩に、「内部からくさる桃」という詩があります。この「内部からくさる桃」の詩が、イエスと他の人々との違いにを示しているように思いましたの、紹介させてもらいます。

・ 内部からくさる桃    茨木のり子
「単調なくらしに耐えること/ 雨だれのように単調な・・・/ 恋人どうしのキスを/ こころして成熟させること/ 一生賭けても食べ飽きない/ おいしい南の果実のように/ 禿鷹の闘争心を見えないものに挑むこと/ つねにつねにしりもちをつきながら/ ひとびとは/ 怒りの火薬を湿らせてはならない/ まことに自己の名において立つ日のために/ ひとびとは盗まなければないない/ 恒星と恒星の間に光る友情の秘伝を// ひとびとは思索しなければならない/ 山師のように執拗に/ <埋没されてあるもの>を/ ひとりにだけふさわしく用意された/ <生の意味>を// それらはたぶん/ おそろしいものを含んでいるだろう/ 酩酊の銃を取るよりはるかに!// 耐えきれず人は攫(つか)む/  贋金をつかむように/ むなしく流通するものを攫(つか)む// 内部からいつもくさってくる桃、平和// 日々に失格し/ 日々に脱落する悪たれによって/ 世界は/ 破壊の夢にさらされてやまない

・この詩で言えば、イエスという方は「ひとりだけにふさわしく用意された/〈生の意味〉を」掴んだ方ではないでしょうか。そして、そのことは「おそろしいものを含んでいる」ので、それに「耐えきれずに」「贋金をつかむように/むなしく流通するものをつかむ」でしまったのが、イスカリオテのユダであり、イエスを逮捕するためにきた群衆であり、逃げ去った弟子たちなのでしょう。

・そういう方としてイエスが、私たちの中にいらっしゃるということは、私たちすべてにとっての希望ではないでしょうか。私は、そのようなイエスにあやかりたいと願います。