なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(171)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(171)」復刻版を掲載します。これはもう10年前のものです。ち

うど2002年の秋に開催された第33/18回教団総会で、沖縄教区提案の「名称変更議案」をはじめ、他の合

同のとらえなおし関連議案すべてが審議未了廃案となり、当時の沖縄教区議長の山里勝一さんが、「さよ

うなら」と言って帰っていった総会です。この総会では、靖国天皇制情報センターと性差別問題特別委

員会が切り捨てられました。

 下記の通信は、2003年1月5日発行ですから、第33/18回教団総会があった年の翌年最初のものです。下

記の文章の中に、「かながわ明日の教団を考える会」のことが触れられていますが、これは2002年年末に

開かれた第一回の集まりのことだと思います。先日第54回かながわ明日の教団を考える会を開催しましま

した。10年という時の重みを感じています。

 

       黙想と祈りの夕べ通信(171-14]2003.1.5発行)復刻版

 今日の礼拝の信徒講壇でSさんが説教をしました。私はSさんから予告をいただいて、説教題は「日本

に生まれて」であり、テキストはローマの信徒への手紙13章1-7節でしたので、予断と偏見かも知れませ

んが、どんなことを話すだろうかと、いささか心配でした。けれども、今日のSさんの説教をお聞きし

て、私の心配は全くの危惧に過ぎませんでした。礼拝後、説教をされたSさんにご苦労さまと労らうと共

に、実は私としては何を話すのか、いささか心配していましたが、その心配は私の不信仰でした、と申し

上げました。Sさんは何がなんだか分からなかったでしょうが。私は当教会の牧師として働くようになっ

てから、この3月で8年になります。牧師の仕事は、何と言っても説教にありますが、説教の核心は聖書の

言葉(福音の言葉)への信頼にあると思います。イエス・キリストの福音を取り次ぐ説教に於いて、説教

者はその福音の言葉がもつ命と力への信頼が問われています。私は、今日のSさんの説教をお聞きして、

私が取り次いでいる聖書の言葉、イエス・キリストの福音が会衆である皆さんの中に何らかの形で受けと

められていることを感じ、うれしく思いました。ますます福音の言葉への信頼を強くし、今までの33年間

の牧会生活からすれば、これからの私に与えられている時間はそう長くはないでしょうが、礼拝の説教に

力を注いでいきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今年一年で自分にとって一番大きな出来

事は、4月から当教会に導かれたことである。それまでもそれなりに毎日充実していたが、どこか満たさ

れないものを感じて来たが、当教会に出席するようになって、毎日が喜びであり、幸せを感じている。何

故早く当教会に来なかったのかと思う。もちろんこれまでの過程も自分には大切な時だったと思う。その

過程があったからこそ今があるからだ。感謝である。来年も一日一日大切に良い年にしていけたらと思

う。

 また、別の方からの発言がありました。私は今年の夏にひょんなことから沖縄に行き、「大きなうねり

を起こす会」に加わり、教団総会を傍聴したり、沖縄のことをいろいろ学んだり考えたりしてきた。そし

て『沖縄の女たち』という本を読んで、落ち込んでしまい、どうしたらよいのか分からなくなってしまっ

た。今日の午後に当教会で、かながわ明日の教団を考える会があり、教団総会後の沖縄教区の対応につい

て聞いた。それによると、沖縄教区としては現在の教団に少し距離を置くということになり、沖縄教区の

一人一人は各人の判断で、教団との関わりも自主的に距離を置く人もあり、出席する人もあるようだ。夏

に出会った沖縄の人たちが今どう思っているのか。自分としては、また沖縄に行って学んできたいと思っ

ている。時間というものは、課題を忘れることにも、課題に目を向け取り組むことにもなるように思う。

落ち込んでいる自分があるが、たとえば沖縄教区の人たちとのつながりを年一回お訪ねしたりして、今後

の関わりとして自分の中で続けて行くことを、今日の集会に出て決心することが出来た。今年一番のテー

マで、与えられたものを大切にしていきたいと思う。

 新しい年が始まりました。最近読んだ本にある辺見庸の言葉、「われわれの身体の外部に不正があると

いうだけでなく、われわれの内面にも悪性腫瘍のような深刻な問題があるということであって、言葉は単

に他者をあげつらうのではなく、劣化して自己内面を照らすものでなければならないと僕は思います」を

自分の課題として、今年もなかなか厳しいとは思いますが、一歩一歩歩んでいきたいと思います。



     「神につける民」 (『ルターによる日々のみことば』より)

 あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗闇やみ

 から驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。    
                              第一ペテロ2:9

 キリスト者には、このようにこのみことばの約束が成就します。すなわち信仰によってあらゆるものよ

りも高くせられ、霊的に万物の支配者となるのです。なにものも救いを妨げることはできず、万物はキリ

スト者に服従し、彼を救いへ導く助けとなります。しかしそれは、わたしたちがこの世のならわしにした

がって万物の所有者となり、それらの用いるように4なるということではありません。なぜなら、肉によ

れば、わたしたちは皆死ぬよりほかなく、だれも死をのがれることはできないからです。キリストや聖徒

の場合と同じように、わたしたちも多くの悩みや苦しみにあうのです。ですから、わたしたちの支配は霊

的支配であり、それは地上にあって悩みの中にある時も、わたしたちのうちに支配しているものです。こ

のことは、わたしが、あらゆうるものを、魂をきよめ、引き上げるために用いることができるという意味

なのです。たとえ、苦しみや死であっても、わたしの救いのために益なります。これは実におどろくべき

真理であって、それがきよいものであれ悪いものであれ、わたしの益にならないものは、なにひとつない

のです。ただわたしが信仰をもち、他のなにものにもたよらず、信仰のみをもって十分としているなら

ば、すべては益となるのです。このようにすばらしい自由と力をキリスト者はもっています。

 さらに、わたしたちは、王よりもすばらしい祭司とされます。祭司はわたしたちを神の前に立たせ、他

の人たちのために祈るにふさわしいものにすることができるからです。祭司だけが神の前に立つことがで

きるのです。

 このように考えてくるとき、キリスト者に与えられるほまれと栄光はあまりにすばらしくて、考えつく

すことができません。

                                キリスト者の自由