なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(172)復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(172)」復刻版を掲載します。

 昨日私の裁判の「公正判決を求める要請書」署名を支援会の方お二人で裁判所に提出してくれま

した。前回提出分を加えますと、個人・団体署名を含めて3,500筆以上になったようです。最

終提出の2月6日には4,000筆を越えるかも知れません。短い期間にも拘わらず、皆さんの御

協力を心から感謝いたします。     


      黙想と祈りの夕べ通信(172[-15]2003.1.12発行)復刻版

 年末年始に寿の越冬に部分的に3日ほど参加しました。今年の印象は、以前と比べて静かな感じ

がしました。寿の街自体が静かでした。何回か作業の合間に寿の街を歩いて見ましたが、私の目に

はそう感じました。それだけ問題の根が深くなっているのかも知れません。以前には、寿に住んで

いる人に現実社会への抵抗や反抗のエネルギーを感じることがよくありましたが、そういう出来事

に出会うことも少なくなりました。1月3日には支援者の参加も少なく、私は炊き出しの配食の時

に、おわんや箸の洗い場の一端を引き受けました。洗剤で洗ったものを水洗いして次に回す仕事で

す。次々に来るおわんや箸を水洗いしているうちに、大体終わる頃には手元から水が浸入し、腕の

部分の下着からジャンバーまで大分濡れてしまいました。その日は特に霰が落ちて来た寒い日でし

たので、このまま放っておくと風邪でも引くのではと思い、引き上げて牧師館に帰りました。帰

って、お風呂を沸かして入り、食事をしました。自分は温かな場所があり、家があるわけで、越冬

が終わればプレハブを出なければならない人やその日も野宿している人たちとは違います(この頃

は、寿公園に2棟の大きなプレハブ小屋が年末年始に建ち、路上生活者の人たちが宿泊していまし

たが、2000年代後半自立支援センターが作られてからは2棟のプレハブ小屋はなくなりまし

た)。そのような人たちのことを思うと、自分のやっていることに矛盾を感じます。けれども、こ

の社会の受益者である自分が、同じ社会から疎外されている人たちと、この社会を媒介にしてどう

関わることができるのかを探求していくために、寿の人たちはとの出会いは、自分の居場所に居直

りがちな私にとっては、変革を必要としている社会に気づかせてくれる大切な機会でもありますの

で、また時々寿に生かせてもらおうと思っています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。私は一人でお正月を過ごしてい

た。2日と3日、みなと未来に出た。ノースドックの船が気になり見に行った。大きな軍用艦が着

いていて、物資輸送船の数が増えている。4日には軍用艦は岸壁になかった。きな臭いというか、

戦争の準備が進んでいることを実感した(2001年9月11日の「同時多発テロ」への報復とし

てはじまっていたアフガニスタン戦争か、2003年3月にアメリカのイラク戦争がはじまります

が、その準備に関係しているのかもしれません。ノースドックは横浜港のど真ん中にあります。ベ

トナム戦争時代もアメリカの戦争にノースドックは重要な役割を果たしました)。一人の力ではど

うにもならないのだが、どうかしなければとの思いを強く持った。近くのそごうデパートには人が

いっぱいで、福袋やバーゲンに群がっている。そこから何百メートルしか離れていないノースドッ

クでは着々と戦争の準備が進められている。対照的である。この時代の危機感を感じないで楽しく

過ごしている人たちに自分は同化していくのか、その態度表明が問われている厳しいお正月だっ

た。平和を祈りつつ生活していくことが自分の今年のテーマである。

 別の方からの発言もありました。31日から1日にかけて私も寿の越冬に参加し、3日はパトロ

ールに行った。その時用意したスープを配った。路上に生活している人もうれしそうだった。ひと

りの人に、「何か困ったことがありますか」と声をかけると、「明日はどうなるかわからない」と

言われた。何も答えられず、自分は逃げるような対応をした。パトロールでは命を大切にというア

ッピールもあるチラシを配り、私自身一日一日を大切にしていこうと生活しているが、「明日がど

うなるか分からない」という不安にどう答えたらよいのだろうか。そういう不安がなくなる社会に

なるようにと、今後も関わって行きたいと思う。


        
        「宮のイエス」(『ルターの日々のことば』より)

 
 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいすは

 ずのことを、ご存じなかったのですか」。    ルカ2:49

 
 ここでイエスが、わたしは自分の父の家におり、自分の父の仕事をしていると、おっしゃってい

るのはどういう意味でしょうか。すべての被造物は、イエスの父のものではないのでしょうか。た

しかにそうです。しかい、神はそれらのものを人間の益になるために、わたしたちに与えてくださ

いました。それは、わたしたちがこの地上の生活において、それらをすべ治めるためです。ところ

が、神はただひとつのものを、ご自分の手もとにとどめておかえました。それは主の聖なるみこと

ばです。そして、宮は主の聖所、または、聖なるすみかと呼ばれました。そこで、みことばが聞か

れ、ご自分をあらわすようにされたからです。

 主は、みことばの宣教から離れては、わたしたちの友人、知人、その他のいかなるものの中にも

見いだされることをお望みになりません。この世のものとなることを望まれないからです。

 キリストは、父の家以外では見だせないことをご存知ですか。あなたであっても、だれであって

も、人間のうちには見いだされません。また人間の持つものの中にも見いだされません。これが、

キリストの母とヨセフが悲嘆にくれた理由です。イエスをいくら捜しても、骨折りと悲しみばかり

で、むなしくあちこち歩き回り、知恵や、考えや、希望はなんの役にもたたず、すべては絶望だと

考えました。彼らは正しい方法でイエスを捜さなかったからです。彼らは、肉と血がのぞむまま

に、捜しました。ここではすべてが放棄されなければなりません。友人も、知人も、エルサレム

全市も、あらゆる熟練も、人の知恵も、人間に属するすべては、むなしいのです。父の家でキリス

トを必ず見いだすことができ、その時、心は再び喜びでいっぱいです。心の慰めを得る道はほかに

はありません。

                             顕現節第一主日の説教