なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

使徒言行録による説教(12)

      使徒言行録による説教(12)使徒言行録3:11-26
              
使徒言行録の今日の個所は、3章1節から10節までに記されていました、生まれつき足の不自由な男をペトロが癒したことがきっかけとなって、そこに集まって来た人々に、ペトロが語った説教です。これは、使徒言行録ではペトロの第2回目の説教になります(第一回は2章14節以下)。新共同訳のこの個所の表題は、「ペトロ、神殿で説教する」となっています。このペトロの説教が、エルサレム神殿のソロモンの「回廊」(新共同訳)でなされたからです。【田川健三さんは、〈西洋語の「回廊」というのは、四角い中庭の四辺を囲む柱廊を言う(だから「回」)。ここは神殿境内の外壁の一辺に沿っているだけの柱廊だから、「回廊」とは言わない〉として、このところは「ソロモンの柱廊」と訳しています】。このソロモンの柱廊のところで、ペトロは集まった人々に、このように語り出します。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか」と。

・第一回目のペトロの説教での呼びかけは、「エルサレムに住むすべてのユダヤ人」(2:14)でした。けれども、ここでは、この「イスラエルの人たち」は「イスラエルのすべての民」を指しています。3章9節、11節に、新共同訳では「民衆は皆」と訳されていますが、原文からするとここは「すべての民」ですし、4章10節では、新共同訳でも「イスラエルの民全体」と訳されています。この呼びかけの「イスラエルの人たち」が指しているのは、その「イスラエルのすべての民」なのです。

・ルカは、このペトロの第二回目の説教を、神はまずイスラエルの民を救い、それから全世界の全ての民へというルカの救済史観に即して、イスラエルの全ての民を代表する「イスラエルの人たち」に向かって語りかけているのです。

・そして、ペトロはまず、自分が生まれつき足の不自由な男の人を癒したと思って、そのことに驚く人たちに、この癒しの力はイエスご自身から出たのだということをはっきりと語ります。それから、イスラエルの神が栄光を与えられたイエスを、あなたがたは殺してしまったという事実を突き付けます。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです」(3:13,14)と。

・ペトロは、癒しの奇跡を起こした力に驚いていたイスラエルの人たちに向かって、彼ら自身が犯した罪責を示し、あなたがたはあなたがたの命の導き手である方を自らの手で殺してしまう(3:15)という、とんでもなく愚かなことをしてしまったのだと言うのです。しかし、「神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です」(3:15)と、ペテロは続け、今やこのイエスの名によって、この男は癒されたのだと語りかけます。

・「この人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです」(16節)。ここでは、信仰の決定的重要性が強調されています。それは、この後のペトロの説教で、イスラエルの人たちがその罪を悔改めて、その信仰によって神に立ち帰ることが勧められていく伏線になっています。

・17節以下で、イスラエルの人たちの悔改めが勧められています。まず、イスラエルの人たちがイエスを殺してしまったのは、その指導者たちと同様に、「無知のためであったと、わたしには分かっています」とペトロは語ります。それだけではなく、イエスを殺したのは、たしかにイスラエルの人たちの罪ではあるが、実はイエスの死は、預言者によって予告されていたように神の計画のうちにあって、神によって実現成就されたのだともペトロは語っているのです。

・これを聞いた人々は、自分たちがイエスを殺したのは、「無知から」で、故意の罪とは違うこと、またイエスの死は預言者が予告していた神の計画で、神自身によってなされたものであると言われて、随分楽になったのではないでしょうか。

・「だから、自分の罪が消し去られるように、悔改めて立ち帰りなさい」(19節)とペテロは人々に悔い改めを迫ります。田川さんの訳では、ここは、「ですからあなた方は悔改めて、あなた方の罪が拭い去られるように回心なさるがよろしい」となっています。このイスラエルの人たちの悔い改め=回心は、「キリストの再臨をうながすのであって、神の慰めの時、万物更新の時の到来は、これによって促進される。すなわち、あなたがたの悔い改めは、自分の救いにかかわるだけではなく、それによって待望の再臨が実現し、不義と争いに満ちた世界に、真の平和が回復される。こうして世界の救いが完成するのだ、と」(高橋)、ペトロは続けます。

・また、22節以下では、「モーセが預言して、神は自分と同じような預言者をお立てになるであろうと言ったのは、このイエスのことであり、その御言葉に聞き従わなければならない。これに背く者は、みな民の中から絶たれるということを、ペトロは旧約聖書に基づいて断言した」のです。「しかしこの厳しい警告に続いて、『あなたがたはみな預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖たちと結ばれた契約の子』と語りかけることによって、聞くイスラエルの人たちがいかに恵みの中に受容されているかという事実を指し示して、その恵みを空しくしないようにと迫るのです。神がアブラハムに約束したという「地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける」という言葉を引用して、アブラハムの子孫であるイスラエルの人たちが祝福を受けることによって、すべての民族にも神の祝福がもたらされるということが強調されています。

・そのためには、何よりも悔い改めの必要が説かれているのです。

・このペトロの2回目の説教では、使徒言行録の著者ルカがどのように神の救いの業がこの人間の歴史の中で進展していくのかという、ルカの救済史観が、第一回目の説教よりもはっきりと出ています。第一回目の説教では、エルサレムの人々に悔改めを迫り、そのペトロの言葉を受け入れて、人々は洗礼を受け、三千人ほどの仲間が加わったということで終わっています。悔い改めた者は、罪の赦しを受け、聖霊の賜物が与えられると言う約束は、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれでも、与えられているものなのです」(2:39)とは、語られていますが、アブラハムの子孫によって地上の全ての民族は祝福を受ける(3:25)とまでは言われていません。イスラエルの全ての民が救われることは、世界のすべての民が救いに至る必要不可欠な前提ということなのでしょう。

・このルカの救済史観は後の教会の世界宣教の根拠にもなっていきます。それによって、大航海時代になると、カトリックプロテスタントも全世界に宣教師を派遣して、世界宣教を試みます。しかし、その世界宣教の結果、キリスト教は世界に広がりましたが、それによって神の救済が近づいたとは、とても思えません。悔改めて回心して信徒になったからと言って、その信徒が必ずしも神のみ心である神の支配する神の国の実現にふさわしく生きるかどうかはわからないからです。歴史的なキリスト教会は、異端審問を行い異端と判定された人物を火あぶりにしたり、魔女裁判をしたり、十字軍を出したり、アメリカでは原理主義的なキリスト教に後押しされて、ブッシュ大統領が聖書に手を置いて他国に戦争をしかけたり、戦時下の日本キリスト教は隣人である朝鮮の人たちに神社参拝を強制したりしました。これが神の救済に仕えるキリスト教会の姿とはとても思えません。

・クリストフ・ブルームハルトは娘婿のドイツ教会の宣教師として中国にいたリヒャルト・ヴィルヘルムに書簡を送って、キリストの使者は、非キリスト教徒をキリスト教に改宗させるべきではなく、福音の証人として非キリスト教徒に向かうべきなのであると言って、「キリスト教への改宗というパン種を警戒しなさい。いかなる場合も中国人の必要に応えつつ、人間に対して人間でありなさい」(67)。他ならぬ中国人の物質的必要を真剣に取り上げることが重要である。私たちすべてを和解させ救済するキリストの兄弟愛の反映としてのキリスト教的兄弟愛が、中国人に対して力強く宣べ伝えられるべきなのである」(p.15)と語っています。

・「人間に対して人間でありなさい」。そのためには、中国に遣わされた宣教師、すなわちキリストの使者として、当時大変な困窮の中にあった「中国人の物質的必要を真剣に取り上げることが重要である」と言うのです。そして中国人に宣べ伝えるべきなのは、「私たちすべてを和解させ救済するキリストの兄弟愛の反映としてのキリスト教的兄弟愛」であると。パウロが教会内倫理として語っている「互いに愛し合いなさい」が、ブルームハルトにあっては、非キリスト教徒にまで広げられているのです。

キリスト教徒は、キリスト教徒の教えを広めるのではなく、キリストの福音をまだそれを知らない人と共に生きること、それが宣教なのではないでしょうか。

・ルカの救済史観に基づいた世界宣教が考えられるとするならば、私たちはブルームハルトの線に沿って考えたいと思うのです。