なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

ローマ15:5-13による説教「希望の源」

 以下は12月7日の船越教会の礼拝での説教原稿ですが、これはほとんどバルトの説教の紹介になっていま

す。たまたま12月4日の私の誕生日に読んだのがこのバツルトの説教でした。12月7日の礼拝説教テキス

トは、今年の聖書日課の箇所の一つです。いつもは使徒言行録の連続講解説教をしていますが、アドベント

ですので、聖書日課からテキストを選びました。その時は、バルトの説教を読む前で、バルトがこのローマ

の信徒への手紙の箇所で説教していたとも知りませんでした。大変不思議な出会いでしたし、私自身バルト

の説教から大きな力を得ましたので、当日の船越教会の会衆にはお断りして、12月7日の説教はバルトの

説教の紹介という、大変変則的な説教をさせてもらいました。


      「希望の源」ローマの信徒への手紙15:5-13、2014年12月7日礼拝説教


・今日の聖書箇所から、私たちは一つの声を聞きます。それはこの箇所の最初と最後にある言葉「忍耐と慰

めの源である神が、あなたがたに、・・・・」「希望の源である神が・・・・あなたがたを満たし・・・・」

という声です。私たちにこのように語るこの声は、願うようでもあり、同時に与えているようでもあり、ま

た真剣であると共に、また親しげでもありますが、これは使徒パウロにおける、神の御言葉そのものの声な

のであります。そこからイエス・キリストの教会は生まれ、教会は繰り返し、それによって養われねばなら

ず、ただそれのみによって養われることができるのです。教会は、決して私たちの共通の興味で集められた

ものでもなく、共通の意見や確信によって集められたものですらありません。ただ神の声がいつも繰り返し

鳴り響くことによって集められているのです。神とは何者であるのか。それはその御言葉において私たちに

語っています。神は、忍耐を与え、また慰めと希望を与える神である、と。その声が、その響き、その使信、

その要求と約束をともなって、今鳴り響くとすれば、イエス・キリストの教会がそこにあるのであります。

その教会の中で、私たちもまた、この声を聞くことによって、「その生ける肢となり、永遠にその肢となり

つづけるのであります。

・しかし私たちのための神の言葉、したがってイエス・キリストの教会が、神から来る慰め・忍耐・希望の

場所として存在していることは、決して自明のことではありません。それは、いつもどこでも現実に存在す

る空気のようなものではありません。それは、自然を通しても歴史によっても私たちの手に入れるように与

えられてはいません。教会に神の言葉が存在することは、一つの秘儀であります。それはいかなる意味でも

私たちの中にではなく、むしろ徹頭徹尾私たちの上にある異質の力、勢力によって基礎づけられるといった

秘儀にほかなりません。教会が存在し、神の言葉が存在することは、この聖書のテキストが言っているよう

に、「キリストが私たちを受け入れてくださった」ゆえに、ただそれゆえにのみ真実なのであります。キリ

ストを受け入れることなど全然考えることのなかった私たちを、キリストは受け入れてくださったのです。

孤児が子供の家に引き受けられるように引き受けられる、私たちが本来全くそうでない何かへと引き受けら

れる、すなわち、イエス・キリストの兄弟・姉妹として、キリストの父なる神の子らとして引き受けられる、

と言うこともできるでしょう。或はまたこう言うこともできるでしょう。あの神の御子が導き、支配し、責

任をとられ、配慮し、取り計らってくれるから、このお方以外、誰も思いわずらいも心配もしなくてよいよ

うな領域へと、導き入れられ、あるいは中に入れてもらえるのである、と。私たちは自分からは、決してこ

のような領域に一緒に運ばれ、中に入れてもらえるわけにはゆかない。しかし、キリストが私たちを中に入

れてくださったのである。これこそ、私たちがもうじきふたたび祝うことをゆるされているクリスマスの使

信である、すなわち、「キリストが私たちを受け入れてくださった!」と。しかも、「神の栄光のために」

受け入れてくださったのであります。それゆえクリスマスの夜、天使が歌ったのであります。「いと高きと

ころには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」。しかし、これらすべてのことは、まさにこ

の聖書のテキストによると、よく考え抜かれた二重の意味において真理なのであります。

・第一にそれは確実に、すべてを包括する意味をも持っています。イエス・キリストは人間の姿を引き受け

られた、つまり神として私たちの隣人となり、同時に人間として神の隣人となるために人間の姿を引き受け

られたのです。その結果、このお方にあって、私たち人間である者のところに、神の国が近づいてきたので

あります。そしてまさにこのお方にあって、私たち人間である者が、神の御心に適う者として、神の御座の

前に立つことをゆるされるのであります。神ご自身、イエス・キリストにあって人間の姿を自らまとわれた、

それゆえに私たちは、御言葉と教会の秘儀をまとわされたのであります。

・しかしながら、この私たちがイエス・キリストに属し、イエス・キリストが私たちに属することは、決し

て自明なことではありません。パウロは、「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れて

くださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と語った後に、「わたしは言う」と言って、

「キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対

する約束を確証されるためである」と語っています。このことは「キリストはイスラエルの民に属しておら

れた」ことを意味します。イエス・キリストユダヤ人であったのです。イエスはある時言われました。

イスラエルの家の失われた羊のところしか遣わされていない」(マタイ15:25,10:5-6)と。そのことは、

私たちイスラエルでない者にとって、閉じられた扉を意味します。にもかかわらず、その扉が開かれてい

るとすれば、にもかかわらずキリストが私たちにも属し、私たちがキリストに属するとすれば、たしかに

もう一度特別な意味で、「キリストは、神の栄光のために私たちを受け入れてくださった」ことが言われ

なければなりません。ユダヤ人でない私たちは、本来「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、

約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きてきた」(エフェソ2:12)ので

すから。

・選ばれ、恵まれた民イスラエルは、この救済者に対し~すべての時代と土地のすべての民族も、その位置

にあったら行ってきたであろうこととちがいない行動をしたのであります。すなわち、イスラエルは、救済

者を拒否し、十字架に着けました。それは愚かな軽率さからではなく、誤解に基づくものでもなく、それど

ころか、この民が神に対していつもやってきたのと、全く同じ仕方の意図的な継続としてやったのでありま

す。神がしばしばこの民をそう呼んだように、「私の民」が、もう一度しかも今最後的に「私の民でない」

ことを、自ら証明してしまったのです。ところが預言者ホセアは実にそれとは全く逆なことを語りました。

そして今そのことがキリストの十字架刑によって事実となったのです。「あなたたちは、私の民でない者と

言われるかわりに、『生ける神の子ら』と言われるようになる」(ホセア2:1)。「父よ、彼らをお赦しく

ださい。自分が何をしているのか知らないのです」。これがこの民に対して、ゴルゴダで言われたことであ

ります。イスラエルは他の諸民族と同じに置かれたことによって、他の諸民族を自分自身と同じようにされ

たのです。あの閉じられた扉は開かれました。イスラエル自身が、それを開かざるを得なかったのです。神

の契約と真実は破られませんでした。むしろイスラエルのそれによって成就したのです。しかし今、神の契

約と真実の業として、神の憐れみを知り、受け入れた異邦人の中にもまた成就したのです。何故なら、まさ

にキリストの十字架の死にあって、そのことが、契約の成就・神の真実であったからであります。「神はす

べての人を不従順の状態に閉じ込めたが、それは、すべての人を憐れむためであった」(ローマ11:32)。

それゆえ、今さらにこう言うことができます。「異邦人が神をその憐みのゆえにたたえる」と。よく聞きな

さい。異邦人が、ユダヤ人よりも善良で、純粋で、正しいからではありません。異邦人が優越性を持ってい

るなら、今日もなおユダヤ人は優越性を持っています。何かその良い資質のゆえではありません。神がユダ

ヤ人を選び、彼らと契約を結ぶことをよみしたもうからにほかなりません。その契約の神は、私たちとも契

約を守られるためにキリストにあって成就したのです。したがってそれゆえ、異邦人は神をほめたたえるの

です、神が、イスラエルのただ中で十字架につけられたキリストにおいて、その憐みを、イスラエルではな

い彼ら異邦人にも示し、確証されたからです。イスラエルとの契約は、イスラエルにとっても異邦人にとっ

ても、何ら忠実さを守ったと誇れないで、ただ憐れみによって生きることができる罪人に、いや現実にはま

た憐れみによって生きることをゆるされている罪人に、恵みの契約として明らかにされたからであります。

それによってイスラエルの優越性も、私たちの不利な点もなくなりました。神が確かにその民(イスラエル

と、ただその民とだけ結ばれた契約そのものが、この神の民によってキリストが拒否されたことにより、神

がすべての者に行おうとする自由な、何の負い目もない恵みとして明らかにされたからです。

・そこで今日のテキストが、イエス・キリストの教会について私たちに語る別の事も理解することが出来ま

す。神の栄光のためにあなたがたを受け入れてくださったように、「あなたがたも互いに相手を受け入れな

さい」と言われています。異邦人もユダヤ人も、すべてキリストによって受け入れられた者は、その憐みの

ゆえに神をたたえ、この命令を果たすのです。彼らは互いに受け入れ合うのです。「互いに受け入れる」と

いうことは、キリストが私たちを見るように、お互いを見ることを意味します。キリストは、私たちすべて

を契約を破った者と見るが、しかしまた、神がそれにもかかわらず、その契約を守ろうとする、そのような

者として見てくださるのです。

・クリスマスを前にして、このようにイエスによって受け入れられている私たち自身の神による肯定と希望

に想いを馳せたいと思います。