なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

エレミヤ書による説教(22)

    「嘆き」エレミヤ書8:14-23、2015年11月29日(日)船越教会礼拝説教

・今日はアドベントの第一主日です。ローソクの灯が一つ灯りました。四つ全部に灯が入るとクリスマス礼

拝です。

・10月31日に私の支援会の集会が紅葉坂教会でありました。その集会で発言されたで関田寛雄先生は、

お話しの中でこのように言われました。実は今10・31集会の報告になります支援会通信第15号をつく

っているところですが、その中にも出ていますので、いずれその通信を受付のところに置いて起きますので、

手に取ってゆっくりとお読みいただきたいと思います。関田先生は、<最近の安倍政権の動きの中に、「一

億総活躍運動」ということが出てまいりました。私の年代の者はですね、政府から「一億」という言葉が出

てまいりますと、「一億一心米英撃滅」ですよ。「一億一心米英撃滅」というファシズム、それが、私たち

の少年時代の標語だったわけです。ちょうど今から80年前です。1935年、ナチスが政権をとりました。教会

闘争が始まった。みなさん、今、日本の状況は1935年代に、80年前の時代に似ているんですよ。今こそ本当

キリスト教会として、イエス・キリストの主権を仰ぎ、この国において人間が守られ、平和が保たれるた

めにキリスト教会が全存在を問われていると思います。そのような思いで私どもの教会をしっかり見ていき

たいと思いますし、国の流れを見ていきたいと思います。そういう意味において私たちは、厳しい時代にあ

りますけれども、ドイツの教会闘争の勝利を思いながら、我々に希望がなくはない。今こそキリスト教会の

本当の希望、それは「詮方尽くれども、望みを失わず」という希望です。「にも拘らず」の希望です。そう

いう希望にこそ、これから日本の教会はしっかり生きていかなければならないと思います>と。

アドベントは、教会歴によれば、新しい年の始まりです。その意味で、この新しい年の始まりに当たって、

私たちは主イエスの降誕を待ち望みつつ、主イエスにおける「にも拘わらず」の希望にしっかり立って生き

ていかなければならないと思うのであります。

・さて、エレミヤが預言者として活動した時代のイスラエルの民の状況も、大変厳しいものでありました。

先ほど司会者に読んでいただきました、エレミヤ書8章14節から17節までには、新共同訳聖書の表題に

「敵の攻撃」とありますように、北から敵の軍隊が攻めて来ることが予測された状態の中でイスラエルの民

は置かれています。16節には、かつてのイスラエル王国の最北に位置する「ダンから敵の軍馬のいななき

が聞こえる。/強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く」と記されています。押し寄せてくる敵の

軍馬の「鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く」という表現には、北から敵が押し寄せて来て、イスラエ

ルの民が住んでいるユダの国が壊滅状態になってしまうという不安が感じられます。14節、15節には、

そのような北からの敵の攻撃に対する人々の反応が記されていいます。<何のために我々は座っているのか。

/集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。>とか、<平和を望んでも、幸いはなく、いやしのときを

望んでも、見よ、恐怖のみ>という言葉から、人々の絶望的な状況が読み取れます。この箇所での北からの

敵は、4章から6章に記されていました、「北からの災い」である騎馬民族スキタイ人の来襲とは違い、時

代的にはもっと後のもので、バビロニア帝国の攻撃ではないかと考えられています。バビロニア帝国の攻撃

を前にして、人々は重苦しい絶望に投げ込まれているのです。ある人は、そのようなイスラエルの民の姿を、

「判断力を失った絶望のパニック」状態と記しています。<敵の襲撃に怯える不安のために、最初にくぎ付

けにされた場所にもはや彼らはじっとしてはいられなくなる。互いに呼びかけ合って、健吾は町に逃れよう

とする。町にも死が迫っているので、これも結局は無意味に終わろうと知りつつも、なお、人々はじっとし

てはいられなくなって、そうせざるを得なくなるのである。これは判断力を失ったパニックの典型的表現で

ある。しかし一方で人々は、何故救いがないのかということも知っているのだ。何故ならそれは、他でもな

ヤハウエ御自身が御自分の民を死に至らしめられるからである、と」。14節に、<我々の神、主が我々を

黙らせ/毒の水を飲ませられる。/我々が主に罪を犯したからだ>。

イスラエルは小さな国で、軍事力からすれば、遥かに強大なバビロニア帝国によってひとたまりもなく、

滅ぼされてしまうほどのものでした。しかし、マルティン・ルーサ・キングが、<われわれは、他者を殺す

ことよりも正義と平和の取り組みにおいて殺される方を選ぶ>と言われたように、イスラエルの人々は、ヤ

ハウエの契約の民として、愛と正義と平和を貫き、確信的な死を選ぶこともできたはずです。ところが、エ

レミヤの時代のイスラエルの人々は、ヤハウエを捨て、異教の神々を崇拝していたのです。異教の神々は豊

穣の神であり、現代的に言えば、資本と力=暴力の神です。そのような神に心を寄せていたイスラエルの人

々は、より大きな資本と暴力を持っているバビロニア帝国の前にひとたまりもなく滅ぼされてしまうのです。

イスラエルの民の不安と絶望は、神ヤハウエに背いて、異教の神々に心寄せていたことの現れでありました。

・そのような不安と絶望に支配されている人々を前にして、エレミヤはどのように生きたのでしょうか。も

しエレミヤが神の召命を受けた預言者として、神の側に立って、神に背くイスラエルの民に審判の預言を語

るだけだったとしたら、背信の極まりの中で不安と絶望状態にあるイスラエルの民を、ついには見捨ててい

たのではないでしょうか。けれどもエレミヤは、ひとりの人間として、同胞の人々との共感を失うことはあ

りませんでした。神ヤハウエを捨てて、異教の神々に仕え、その結果大国バビロニア帝国の脅威の前に不安

と絶望に陥った人々のことが気になって仕方なかったのです。ですから、エレミヤはただ嘆かざるを得ませ

んでした。エレミヤは正義を振りかざして、イスラエルの民を断罪しませんでした。イスラエルの民と共に

生きることを求め願ったのです。ただイスラエルの民の生き方、在り方には、エレミヤは預言者として批判

的でした。決して同調することはありませんでした。それでも、エレミヤはイスラエルの民を突き離すこと

はできません。エレミヤのイスラエルの民に対する思いは、非行に走る、その子を愛する親の気持ちに近い

のかもしれません。

・<・・・・単に憐憫のまなざしで自分の民が病んでいると看て取っている、というばかりではない。民

に慰撫と癒しを施したいとの燃えるような熱情によって、促されているのである。しかし、彼でさえも、癒

しはありえないという事態を前に、断念して佇んでしまう。「何ゆえ」とう彼の問いは答えられず、そのこ

とによって事態はなお一層不安をかきたてる>(ヴァイザー、ATD228頁)。そこからエレミヤの嘆きが生

まれます。

・<わたしの嘆きはつのり、/わたしの心は弱り果てる>(18節)。<娘なるわが民の破滅のゆえに/わた

しは打ち砕かれ、嘆き、恐怖に襲われる>(21節)。<わたしの頭が大水の源となり/わたしの眼が涙の源

となればよいのに。/そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう/娘なるわが民の倒れる者のために>(23節)。

このようにエレミヤは語っているのです。

・エレミヤに残された唯一の悲痛な望みは、彼の民の打ち殺された者たちのために止むことなく泣くことが

できるということでした。この23節の言葉において、心を打ち明ける預言者レミヤの深い痛みは、たとえそ

の嘆き自体は神を語ることが実は神の啓示の領域に属するものなのです。というのは、エレミヤが人間とし

て存在していることを赤裸々に語る彼の嘆きにおいてさえ、エレミヤという預言者は神の啓示(みわざ)の

担い手であり続け、また遂に、啓示(神のみ業)の受領者でありながらも常になお、エレミヤが自ら告知し

なければならない事態に自らも捕えられてしまう人間であり続けているからである。共に苦しむ預言者のこ

のような人間としての在り方こそが、まさに聞き逃してはならない神の厳粛さの、しかし同時にその神の愛

のことばを語っているのである。それは、神は自らの使いを自分の身代わりとして苦難に渡される、という

ことである。この点においてエレミヤは、神のために人間として共に苦しむということを通して、イエス

キリストを暗示し、また証言しているのである(ヴァイザー、ATD228頁)。

・マルチン・ルーサー・キング牧師には、核心的なビジョンがありました。それは「和解した人類、われわ

れのただ中の神の支配、彼の言う「愛の共同体」(the beloved community)というビジョン、あらゆる命が

聖とされ、われわれ皆が対等に姉妹兄弟であり平和の神の子であり、和解を果たし、すべての者が一つとさ

れ結ばれているという真実であ」りました。そして彼にありまして、行動的非暴力は平和のための方策とか

方略とかいった以上のものでありました。それは生き方そのものでした。「われわれは暴力を放棄し、他者

を二度と傷つけないことを誓うものである。非暴力は受動的ではない。それは、人類全体のための平和と正

義をめざし、組織的悪に抗し、あらゆる人々と忍耐強く和解し、たとえ一人であっても誰かを殺すことを支

持するような大義などないと明瞭に主張する能動的な愛と真理である。われわれは、他者を殺すことよりも

正義と平和の取り組みにおいて殺される方を選ぶ。われわれは、この惑星のための正義と平和を追い求める

とき、他者に対して暴力を振るうのではなく、さらなる暴力によって報復を謀るよりも、むしろ苦しむこと

を受け入れ耐えていく」。この「われわれは、この惑星のための正義と平和を追い求めるとき、他者に対し

て暴力を振るうのではなく、さらなる暴力によって報復を謀るよりも、むしろ苦しむことを受け入れ耐えて

いく」と言われている「苦しみ」はイエスの苦しみであり、エレミヤの苦しみと同じ質の苦しみではないで

しょうか。

・神はいつの時代、どの場所においても、そこで生きる人々に、この苦しみを担う和解の使者として、私た

ちを招いておられるのではないでしょうか。しかもエレミヤと同じように、神の導きに心を閉ざし、不安と

絶望に打ちひしがれた圧倒的に多くの人々の中で、「にも拘わらす」私たちと共に苦しむ神に希望を見出し

て、一人の行動的な非暴力抵抗者として、この現実を生きて、夢を繋いでいくことが求められているのでは

ないでしょうか。