船越通信癸横苅院 。横娃隠鞠12月20日
・13日の日曜日は、礼拝後しばらく懇談し、私は午後1時半から汐入の産業交流プラザで開催された「原子力
空母・市民の会17周年記念・特別学習会」に参加しました。ゲストスピーカーとしてお二人の方が講演しました。
一人の方はピースデポ特別顧問・さい熟塾長の梅林宏道さんという方です。原子力空母ジョージワシントン(GW)
とロナルドレーガン(RR)の2011年3月4日の航海日誌が米海軍から情報公開され、その記載から原子力空母GWから
放射性物質を含む過剰冷却水、気体ガスの200海里内での放出と、危険な原子炉緊急停止、再出力急上昇試験実施
の事実が明らかになったそうですが、そういう原子力空母の危険性を、事故の事実の検証を含めて正確に把握し
た上で、訴えて行くことが必要であるということを、私は梅林宏道さんの講演から教えられました。もう一人の
元双葉町長・井戸川被曝裁判原告の井戸川克隆さんからは、だまされないことの大切さと政治家としての責任の
取り方について教えられました。国も県も東電も福島第一原子力発電の事故の終息を急ぐために、被曝の危険性
をないがしろにして、住民の帰還を進めているが、これはとんでもないことであるということを、切々と訴えて
いました。講演の時間が短かったので、井戸川さん自身がお話ししたかった内容からすれば、ごく一部だったと
思われます。一度この方の話をゆっくりとお聞きしたいと思いました。ご本人は2時間ないと自分の思いを伝え
られないとおっしゃっていました。この日の講演は1時間もなかったのではないでしょうか。フロアーからの発
言の中では、東京から来たという方で、自分は30年以上前から反原発運動をしてきたが、原発をやめさせるこ
とができずに、福島の事故を起こしてしまったことに、怒りと責任を感じているという主旨の発言をしました
が、その発言が印象深く思われました。
・さて、関田先生からクリスマスメッセージが二つ来ていますので、ご紹介します。「クリスマスおめでとうご
ざいます。皆様からのお心のこもったクリスマスカードを感謝をもって拝見しました。北村先生が様々なプレッ
シャーにもかかわらず確信をもって船越教会の牧会に従事しておられることは、教団の多くの友人達にとって希
望であります。またその先生をしっかり支えていて下さる御一同は、正に『神の家族』としての教会の代表であ
ると思います。新しい年もまた、先立ちたもう主を仰いで励んで参りましょう。よき新年をお迎えくださいま
すように」(葉書)。「クリスマスおめでとうございます。今年は『戦争法案』の強行採決に続き、『一億総
活躍』運動など、政府からの掛け声が始まっていますが、『一億』などと政府が言い始める所に、戦前のファ
シズムの響きが聞えて来ます。このような時だからこそ、いと小さき命として生まれたもうた主イエスに仕える
ことで、ヘロデの権力政治に抵抗して行きたいと思います。その意味でのクリスマスを祝いましょう。/船越
教会からの尊いプレゼントを頂きありがとうございました。何程のこともしていないのですが、北村先生の召
命と生活を守る闘いは新しい年にも更に強めて参りましょう。船越教会の存在は教団の教会の中で輝いていま
す。よい新年をお迎えくださいませ。関田寛雄、北村慈郎先生、船越教会の皆様」。
・他にもクリスマスカードが来ています。「皆様へ、いつもお祈りして下さり、有難うございます。とても嬉
しいです。胃も食道も無いので、食べる事水を飲むことも大変な苦労ですが、少しづつ慣れて来ました。歩く
訓練も少しづつ快方に向かっています。どうぞ、皆さまの上に主イエスの祝福が豊かにありますように。良き
Xmas、新年をお迎え下さい。Tより。/Tは、神様にいつも奇跡的に助けられ、礼拝に出席するだけで、皆のは
げましになっている様です。いつもお祈りありがとうございます。良きクリスマスをお迎え下さい。主にあ
りて。E」。
・「お祈りありがとうございました。感謝しております。新年も祝福の年でありますようにお祈り致しており
ます。 A、2015.12.4」。
・「いつも私達のことを覚えて下さり、ありがとうございます。世相も政治もキリスト教界すらも右傾化してい
るように思えてならない今日、神の導きの中に見る幻を、これからも追い求めていきたいと思います。船越教会
の皆様に、惠が豊かにありますように。H/来年は智子も巣立ち(?!)、いよいよ夫婦二人だけの生活が始ま
ります。船越教会で学ばせていただいた事を大切にこれからも歩んでいきたいと思います。K」。
・こういう言葉に出会いました。<社会を変えるという作業は、これまで世界のどこにも存在したことのないも
のを創造するアーティストの試みに似ている。いまある世界を生きながら、どこにもない世界を創造するという
ことは、荒唐無稽で非現実的なことではなく、私たちの想像/創造力に委ねられているものだ。いまある世界を
洞察する力があってこそいまある世界の本質を見抜き、新たな可能性を創造するきっかけをつまむ。これに対し
て、国家や資本のようないまここにある世界の支配者は、この世界の延長線上にしかその未来を描けない。その
限りにおいて、世界は新しいものとしては創造されず、この世界がもたらす途方もない悲劇から人々を解放する
ことはできない。こうした国家や資本にまつろわない民衆(プロレタリアート)の側にこそ、どこにもない世界
を創造する契機がある。このことが、運動の多様な姿、試行錯誤する実践の多様な形に示されている。だが、こ
のことは、民衆であれば常に正しい振舞いをするとか、民衆の中にこそ正義が宿っているといったことを意味し
てはいない。民衆もまた大きな錯誤に陥り、資本と国家の手先にもなる。あるいは、宗教原理主義―――これは
イスラム教ばかりでなく、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教、そして日本に根強い天皇主義―――の中に救済
を求めようとする傾向が大きな力をもっているということを見据えることが必要だ。反資本主義であるというこ
とは、こうした宗教原理主義の罠からも脱するものでなければならない。このことは、とりわけ日本のように、
天皇主義的な国粋主義としてのナショナリズムを克服しきれていない国において反資本主義を構想するばあい
には、重要な課題になるということを強調しておきたいと思う(小倉利丸『抵抗と主体そその思想』p.46)>。
・