黙想と祈りの夕べ通信(559)復刻版を掲載します。2010年6月のものです。
下記に出てきます防府の方を、私が支援会のアッピールをするのを西中国教区常置委員会が受け入れてくれ
ましたので、今年5月に開催された西中国教区総会に伺ったとき、その帰りがけにお尋ねしてきました。30分
ほどでしたがお話をすることができました。この方が私の問題に共感してくださるのは、御自身痛みを抱えな
がら生きてこられたからではないかと想像いたします。そのご自分の痛みが戒規免職を受けた私の痛みとどこ
かで共振するものがあるのではないでしょうか。この方は私に繰り返し、「先生、負けないでください」と励
ましてくださっています。現在も支援会から通信を送る度に、支援会事務局長のところにお手紙が届いています。
黙想と祈りの夕べ通信(559)[Ⅺ-37]2010・6・13発行)復刻版
教団教師委員会による私への戒規免職処分は、教団の諸教会にいろいろな反響を呼んでいます。先日見ず知ら
ずの方からお手紙をいただきました。その方は山口県の防府市にいらっしゃる方で、お手紙の内容からしますと、
知的障がいのある方のようです。最初に頂いたお手紙のはじめのところには、このように書いてありました。
「私は、『風』ジャーナルをはいどくさせて頂きました。紅葉坂教会のみなさまと北村先生のことをとてもそん
けいしています。私は、知的しょうがい者です。主の御名を賛美します。・・・・」と。この方は施設での生活をし
ておられ、教会にはなかなか行かれないとのことですが、教会の牧師さんが時々訪ねてくれるのがうれしいと書
いてありました。教団ジャーナル「風」を、どのような経路で得て読んだのか全く分かりませんが、このような
お手紙をわざわざくださったということは、「開かれた聖餐」への共感をお持ちだからではないかと推察いたし
ます。この方のような人がいらっしゃるということは、大変うれしいことですが、反面この方の生活の中に教団
で起きている私の戒規免職問題が闖入し、この方を煩わせていることには、いささか申し訳ないとの思いを持ち
ます。この方は知的障がい者だということですが、お手紙の文字は、鉛筆で一文字2センチ四方以上の大きな文
字でB5の紙面7枚の裏表にびっしりと書いてありました。私はすぐに返信を出しました。するとまたお手紙が来
て、「先生のじょ名、そして、分れつということのないことを、いのり上げます。さいあくのばあい(これはあ
ってはならんこと)、じょ名ならば、私はあくまでも、先生についてゆきます。」という励ましの言葉をいただ
きました。佐藤優さんのような良識が通じて、この問題でこの方のような人を悩ませないようになってもらいた
いと思います。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。自分の実家のあるところの昔の友人が叙勲を受
けたので、花を贈った。その際実家にも病気の人がいるので花を贈った。しかし、1週間ほど経っても受け取っ
たという連絡がなかったので、花が届いていないのではないかと思い、友人に電話したら、花は届いていること、
忙しさの中でお礼の電話を失念したことを詫びられた。そこで実家に電話したら、その息子が出て花が届いたこ
とを含めて近況報告を夫々に交わすことができ、途絶えがちだった実家との交流があって大変うれしかった。
続いてもう一人の方の発言がありました。先日かながわ明日の教団を考える会があり、そこで笑いについて
の話が出た。現在の聖餐をめぐる教団の問題は笑いたくなることがある。北村が常議員会でこの問題で勧告を
受ける前に、聖餐についての発題をしたときに、本人は気付かずに笑い顔になっていたと思うが、陪席者の中
から「いつまでも、笑っていられると思うなよ」という野次があった。笑いが相手を怒らせてしまうこともあ
るので、難しい。考えてみると、教団では喜びの共有からの笑いは少ない。あまりの価値観の違いで笑ってし
まうことは多い。閉じた聖餐をまじめに取り組んでいる人に対しても、笑ってしまい、相手の言うことを聞い
ていないこともある。これは危険なことだ。出席者の関田寛雄先生はトラさんのファンで、先生はよくユーモ
アが足りないと言われる。ユーモアがなく、きまじめであることによって、私たちは人を裁いてしまうことが
ある。本当のユーモアをもって生きることが大切なのだろう。小さな子どもを見て、大人である私たちはニコ
ニコしてしまうが、その時その子どもを対等な人間としてみているだろうかと思うと、反省させられるところ
もあるように思う。きまじめさと笑い、人を生かし合う豊かな笑いを共有できればと願う。
「すべての愛の源」 6月13日
両親や兄弟姉妹、配偶者、恋人、友人たちの愛がなければ、私たちは生きることが出来ません。愛がなけれ
ば、私たちは死んでしまいます。しかし多くの場合、この愛はひどく歪めら限界あるものとして体験されてい
ます。勢力争いや嫉妬、恨み、復讐心、虐待までもが、愛を汚すことがあります。人間の愛に、私たちが望ん
でいるような完全な愛はありません。時として、人間の愛は不完全であるあまり、それが愛であるとはほとん
ど分からないほどです。
そのような不完全な人間の愛のもたらす傷によって打ちのめされないためには、次のようなことを信じなけ
ればなりません。すべての愛の源は、神の無制限で無条件の完全な愛であるということ、また神のこの愛は、
私たちから遠く離れたところにあるのではなく、私たちの内におられる神の霊の贈り物であるということです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)