なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(558)復刻版

 17日の東京新聞夕刊一面には、原子力規制委員会九州電力川内原発に続いて、関西電力高浜3、4号

機の審査書案を了承したというニュースが載っていました。その解説で記者は、「原子力規制委員会の審

査に合格してもなお、田中俊一委員長自ら「リスクゼロではない」と事故が起きる可能性を認めている。住

民を守る避難計画は規制委の審査の対象外で、実効性は担保されていない」と述べています。人の命と生活

を守ることが第一に考えられなければならないにも拘わらず、この国の政府や政府機関はどこを向いている

のでしょうか。

 黙想と祈りの夕べ通信(558)復刻版を掲載します。2010年6月のものです。、


        黙想と祈りの夕べ通信(558)[Ⅺ-36]2010・6・6発行)復刻版

 国会前の辺野古新基地建設反対座り込みに時々参加していますが、その座り込みに何時も参加している80

歳過ぎのSさんという方がいらっしゃいます。この方は、着ている上着にも、帽子にも、荷物入れにも「ピー

頃は、憲法9条の条文を書いた布切れを必ず持って来て、国会前の道路を通る人や車に向ってそれを掲げて、

憲法9条遵守を訴えていました。今は沖縄の基地撤去、辺野古の新基地建設反対を中心に訴えています。私な

どは座り込みに行っても、だまって座り込んでいるだけが多いのですが、その方は道を通る人に向って、

「沖縄から基地を撤去しましょう。」「辺野古に新しい基地をつくることは反対です。」「カンパをお願い

します。」と声をかけています。筋金入りの平和運動家です。国立に住んでいるそうですが、毎週月曜日と

木曜日に国立から国会前までやって来ます。健康が優れないときには、入院することもありますが、しばら

くすると退院して、ふらふらしながら座り込みを続けています。かつて三里塚闘争にも関わったことがある

ようですが、一緒に闘争に関わっている人を状況によって簡単に切り捨てるセクトに対しては、大変厳しい

批判の言葉を向けられます。おそらく体が動く限り、誰が何と言っても、平和をつくり出すために活動し続

ていくことでしょう。

 先週は5月28日に出た「米軍普天間飛行場移設に関する共同声明」への抗議の集会があり、3日、4日と続

けて私も参加しました。4日夜は鳩山首相辞任、菅首相誕生を受けて「普天間基地辺野古移設は白紙に!」

を訴える緊急の集会が国会前でありました。私は前日3日に参加した中野ゼロで開かれた沖縄・緊急意見広告

報告集会で4日の集会を知り参加しました。本当に緊急の集会だったようで、3日の集会でのアッピールでは

「国会をキャンドルの灯で囲みましょう」ということでしたが、とてもそこまでは人が集まりませんでした。

国会を囲むには4面の道路を人が並ばなければなりませんが、せいぜい一面の道路に並んだくらいです。私も

参加を迷いましたが、またこの時期なのでと思って参加しました。国会前では戸塚教会のO牧師、三・一教会

のT牧師と一緒になりました。その参加者の一人に「沖縄から基地をなくそう」と書いた、手を広げて持てる

くらいの手製の横看板を首から吊るして、国会前の道路を通る人や自動車に向かって、一生懸命訴えている

おばあさんがいました。集会が終わって、帰りがけにそのおばあさんに私は声をかけました。「その看板は

いつも持ち歩いているのですか」と聞きました。私の質問にそのおばあさんは答えて、「そうです」と言っ

て、「私は語り部ですから、どこにでもこれを掲げて、出会う人に語りかけているのです。」と、ニコニコ

しながらおっしゃいました。前述の「ピース」おばさんのSさんと言い、このおばあさんと言い、変わり者の

おばあさんと言ってしまえばそれまでですが、私には衝撃でした。心から沖縄の痛みを自らのこととしてと

らえていなければ、生きている限り語り部としてあり続けたいという執念のようなものを内に秘めて、明る

く語ることはできないように思えるからです。このお二人は戦争世代でしょうから、戦前の時代に絶対に二

度と再び戦争はやってはならないという何らかの痛切な体験をお持ちなのかも知れません。私のような者の

平和への思いは、どちらかといえばかくあるべきだという理念が先行していると思いますが、このお二人の

おばあさんは体の芯から平和への思いと行動が出て来ているように思えてなりません。 
 

           「キリストと共同の相続人」  6月6日

私たちは絶えず自分たちをキリストよりも劣った者と考えます。そうすることで、私たちは、キリスト者

しての生き方がもたらす苦しみの極みばかりでなく、栄誉の極みまでも遠ざけてしまいます。しかし、イエ

スを導いた聖霊が私たちのことも導いてくださいます。パウロは言っています。「この霊こそは、わたした

ちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子どもであれば、

相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(ローマ8:16-17)。

 この真理にしたがった生き方を始める時、私たちの生活は根本から変わっていきます。神の子どもの完全

な自由を知るようになるばかりではなく、この世から全面的に拒絶されることをも、私たちは知るようにな

るでしょう。私たちが栄誉を自分のものと認めることをためらうのも理解出来ないことではありません。そ

うすることで苦しみを避けようとしているのでしょう。しかし、もし進んでキリストの苦しみにあずかろう

とするなら、私たちはまたキリストの栄光にもあずかるのです(ローマ8:17参照)。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)