なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(281)復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(281)」復刻版を掲載します。

 
         黙想と祈りの夕べ通信(281[-20]2005・2.29行)復刻版

 2月20日に教区オリエンテイションで「教職論と聖餐論について」話すことになっています。その準

備をしていて数年前にお亡くなりになりました井上良雄先生の「私の視点から~『東神大紛争』につい

て」という文章を改めて読む機会がありました。その中で先生は1969年の9・1,2集会における青年の追及

の仕方へのご自身の批判に触れた後に、次のように記しています。「そのような私の心持の背景には、19

50年ごろから考え続けて来たキリスト者平和運動の中で、権力に抗議している者たち自身の中にいつの間

にか生じてくる権力意識、暴力に対抗する者自身の暴力化という事実を問題にせざるを得なかった。私は

パシフィストではないけれども、そのような場合、それは大きな暴力に対して小さな暴力に過ぎないとい

う風に、自己の暴力化の問題を回避することは、キリスト者として許されぬことだと考えた。そして、キ

リスト者平和運動家の任務の一つは、国家の暴力化に抗すると共に、自分自身の暴力化に対しても、いつ

も目を覚ましていることだということ、したがって彼はいつも、「党内野党」として一般の平和運動の中

にありつづけなければならないということが、私の問題意識の一部だった」。この部分を読んでいて、井

上先生という方の事柄に向かう姿勢を感じて、何か大変懐かしい思いにかられました。当時の東神大教授

会に対して批判的な学生の中にある暴力主義を批判しつつも、その批判的学生が問うている問いの真理性

に対しては謙虚に耳を傾ける先生の姿勢は、残念ながら他の東神大教授にはありませんでした。その結果

井上先生は東神大教授を解職されてしまったのです。この先生の事柄を見分ける眼を私も持ちたいと思っ

ています。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。先週のこの会には沖縄に行ってたので参加でき

なかった。来月には自分の誕生日による格安運賃という特典を利用して、4人の人と沖縄に行くことにし

ていたが、今回用事があったのと、自分に何ができるかという思いで急遽行ってきた。私は仲間と共に国

会前での座り込みに参加しているが、今まではそのことを沖縄に行ったときに強いて報告しないできた。

今回は国会前で配っているチラシと大きなうねりを起こす会通信を持っていって配った。辺野古で座り込

みをしている人は熱心に読んでくれて喜んでくれた。私は伝えるということの大切さを知らされた。今ま

では自分が受けるだけだったが、国会前の座り込みや自分たちの活動を知らせることによって、沖縄の人

たちからいろいろ与えられるものがあった。例えば国会前の座り込みで辺野古の写真を掲げているが、今

までのものが大分痛んできていたが、その話をしたら、大きな版のラミネート辺野古の写真ができてい

るので持って行くようにと、その人の家まで一緒に行って一枚2500円もする二枚の写真を持たせてくれ

た。国会前に月曜日に持って行って、パネルにはったら国会前に座り込みに来ていた人たちも喜んでくれ

た。自分の感じたことを自分の心に秘めているだけでなく、他者に向かって言葉で伝えることの大切さを

教えられたように思う。言葉で発すれば相手にも伝わる。国会前の座り込みをしていた時に、沖縄の議員

がその前を通りかかった。インターネットでその頃辺野古の座り込みの人数が少なくなっているとあった

ので、その議員にそのことを話した。辺野古に行ったときに、そこに来ていた人の中にその議員から言わ

れて来たという人があった。沖縄の人はパソコンを持っている人はまだ少ないので、国会前の座り込みも

インターネットで情報が沖縄に伝わっていると思っていたが、そうでもないらしい。配慮の足りなさを感

じた。チラシや通信を持っていってはじめて伝わった。今回沖縄に行って体験したことはもっと沢山ある

が、そのくらいにしたい。辺野古の方は見通しが明るくなっている。非暴力抵抗の力が発揮されて、素晴

らしいことが起こりそうだと思っている。