なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(282)復刻版

 今日も「黙想と祈りの夕べ通信(281)」復刻版を掲載します。


        黙想と祈りの夕べ通信(282[-21]2005・2.27行)復刻版


 2月22日(火)夕方農村伝道神学校の卒業式に来られた沖縄教区議長Y先生をお呼びして、先生を囲

む集いを当教会で開きました。Iさんが話をしてくださり、Iさんと私で呼びかけて集まってもらいまし

た。東京からの2名を含めて約30名の方が集まりました。最初にY先生にお話をしていただきました

が、改めて大和の側がいかに沖縄を踏みつけてきたのか、日本基督教団も然り、ということを突きつけら

れた思いをいたしました。そのことと話は別ですが、Y先生が今責任をもっている教会は大きな病院と関

係していて、礼拝には統合失調症の方も多く参加しておられるということでした。統合失調症の方に聖書

の隣人愛の話をしたとき、Y先生は伝わらないと感じて、その後は隣人愛の話をするときにも、まず自分

を愛し大切にするということを強調するようになったというのです。中には、先生俺の病気を治してよと

いう方もいて、聖書の使信は何かを問われるということをおっしゃっていました。これは以前私も神学校

を卒業して最初に赴任した教会で青年たちと隣人愛について話し合っていたときのことです。前にもここ

でお話したことがあるかも知れませんが、ある青年が、自分は自分の命も大切に感じられない。いつ死ん

でもいいと思っている。自分をさえ愛せないそんな人間がどうして隣人を愛するなどということができる

のか、とポツンと発言したことがありました。そのとき、不意を突かれた感じで、なるほどといたく感心

したことを覚えています。このことに関わりますが、私たちが何かを考えたり、何かをしたりするときに

不完全とは言え自分の足元を見つめ、自分の足で立つことの大切さを感じています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。私もY先生を囲む集いにでた。先生は私

たち参加者に「日本人として自分自身をどう考えるか」という質問をした。私はその場で答えなかった

が、自問自答していた。その時答えた方は戦前からの人で、それぞれ沖縄との関わりで日本人としての自

分について話した。私自身は戦後育ちでちょうど劇的に価値観が変わり、教科書にも墨が塗らる経験をし

た教師自身が戦前のような強力な価値観を子供たちに押し付けることもなかった時代に義務教育を受け

た。同級生の着ている洋服にはつぎはぎがあり、中学生にもセイラー服を着れない子もいた。バラバラが

当たり前で、小学校の6年間ほとんど勉強らしい勉強もしないで過ごしたように思う。後からそれは戦後

アメリカの愚民化政策だったということを知った。それだけ枠にははめられなかったということだ。辺

野古に座り込みに大和から行く女性たちは、不思議と私と同世代の人が多い。娘がお稽古事で付き合って

いる年配の女性も、話を聞いてみると私の同世代で、みんな元気だということである。自分は「日本人と

して・・・?」と言われても、余りピント来ない。世界の人はみな同じという感覚が強い。育った横浜と

いう地理的な影響もあるかもしれない。小さい頃から横浜には外国人も多かった。しかし、みんな同じで

はと思いながらも、改めて沖縄のことを考えると、沖縄からすれば私たちは抑圧者・差別者なのだと思わ

される。昨日の集会で最初に自己紹介があったが、そのとき多くの人は苗字だけ言って、名前は言わなか

った。私はフルネームで言った。最初に出会った沖縄の女性で、小さい時自分の苗字のせいでいじめに会

い、自分の苗字は嫌いだったが、結婚する時その苗字を大切にしたくて夫婦別姓にしているという人がい

る。私も沖縄に行ったときには、苗字を言うのに緊張がある。沖縄の人が大和に来ていて、名前を聞かれ

るときにももっと緊張があるのだろう。日本人としての自分の歴史認識が欠けていると思わされた。性差

別の問題を考え、また沖縄と出会い、自分は何者なのかを考えるきっかけを与えられたことを感謝してい

る。