なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(501)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(501)復刻版を掲載します。2009年4月のものです。

 昨日は東京地裁で開かれましたコンゴ人のMさんの裁判を傍聴しました。今日は午後国会前の辺野古

地建設反対座り込みに行き、その後午後6時から行われる日比谷野外音楽堂の集会にさんかするつもり

です。


          黙想と祈りの夕べ通信(501[-30]2009・4・26発行)復刻版


 最近の教団新報の記事は、「それ行け、伝道」(山北宣久教団議長)路線一本という観を呈しています。

150年記念伝道のことが前面に出てきて、沖縄教区が教団との間に距離を置いていることも、合同のと

らえなおしについても、全く忘れ去られています。最近号の教団新報は一面が150年記念伝道のこと、

最後のページには東京神学大学の学長になった近藤勝彦さんの「学長就任にあたって」という文章が掲載

されています。伝道=教勢拡張=財政確保という護教的な関心が優位を占めて、その路線に合わないもの

はすべて排除していくという姿勢が見え見えです。実際には日本基督教団に属する教会、信徒・教職の働

きは実に多様でありますが、そういう面が教団新報には全く反映されなくなりました。正常化の人たちは、

これが正常だと言うでしょうが、決して正常だとは思えません。私としては為すべきことを為しつつ、沖

縄教区との関係の修復も合同のとらえなおしも自分の課題として担い続けていきたいと思います。

 上記の私の発言に続いて一人の方の発言がありました。先日紅葉坂教会で行なわれた沖縄交流委員会の

集会で、「沖縄にある望ましい将来教会のあり方」答申について、それに関わられた宮古島伝道所のKさん

のお話を聞いた。そのこともあり、「戦争と女性への暴力」日本ネットワークバウネット・ジャパンの

公開ワークショップ2009「シリーズ・沖縄の軍隊と性暴力」第1回「沖縄・宮古島慰安所調査報告」に行

って来た。沖縄戦のさなか宮古島にも慰安所がつくられた。慰安所は沖縄全部で130箇所以上もあって、宮

古島には確認されただけで16箇所もあったそうだ。その慰安所には沖縄の辻遊郭の女性や朝鮮人慰安婦

も動員されたという。昨年9月沖縄・宮古島に「慰安婦」祈念碑が建てられた。その祈念碑建設運動や調査

活動で中心的な役割を果たした二人の方からその内容の詳しい報告を聞いた。次回も参加したいと思う。

 また別の人の発言がありました。今日も国会前の辺野古基地建設反対の座り込みに行った。今日は国会前

が大変にぎやかだった。それとは対照的に今この時の静かさが心地よく、色々思い巡らせた。『福音と世界

』に本田哲郎さんが「・・『ともに』という事をよくいいますが『ともに』というのは同じ立場に立つとい

うことではありません。立てないからです。連帯するのです。それぞれの場所から行動するのです・・・」

と書いていることやこの前の説教を想い起こしている。国会前には、共産党の人の春闘のデモ、妙法寺のお

坊さんの座り込みでたたく太鼓の音、国労の座り込み、9条を守る会の座り込みとにぎやかであった。私た

ちは女性2,3人の座り込みである。デモに来た人たちから、私たちにご苦労さんと声をかけてくれ人が多

かった。お互いに頑張りましょうと声を掛け合う。慰安婦のことで来た知り合いの人、入管法のことで来た

Wさん、海賊法反対に来た人が私たちの座り込みに寄ってくれた。本田哲郎さんは又「・・小さくされた人

を見てほっとけないと思ったならば、その人を小さくしてしまった社会に対して怒りを感ずるはずです。・

・・」と言っている。クリスチャンであるなしに関係なく、人間を抑圧する大きな力に抗って人間としての

怒り抱く、それが連帯という。この言葉が近くに感じられた。最近いくつか観た映画の中に世界の貧困が描

かれているものが多い。子供たちが犠牲となっている情景がいくつか出てくる。それと比べると日本はまだ

恵まれている。それでも渋谷には施設を飛び出してストリート・チルドレンになっている子どももいるとテ

レビで報道されていた。大人が富むために子供を利用している。子供の命が傷つけられている。何に怒らな

ければならないか、想像力を研ぎ澄ませていないと見失ってしまう気がする。現実を見定めていたい。鈍感

でいれば、ハッピーに生きられるかもしれないが。国会前にはたった一人でアピールに来る人もいる。十字

架のイエスの道行を想いながら、教えてくださいと祈っていた。
  
   

          「上からの質問」         4月26日


 霊的な質問とは何でしょうか。それは上からの質問です。復活の時に七人の兄弟の妻であった女は誰と結

婚するのかというような、人々がイエスに尋ねた質問の大部分は下からの質問です。イエスはこの質問にお

答えりません。というのもその質問は律法主義的な考え方から出た下からの質問であったからです。

 こうした問いかけにしばしばイエスは、質問を変えることでお答えになっています。七人の夫を持った女

の場合には次のように言われました。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく・・・・神があなたたちに

言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあ

るではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(マタイ22:23-32)。

 霊的な答えを望むなら、霊的な質問を探し続けなければなりません。


                   (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)