なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(502)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(502)復刻版を掲載します。2009年5月のものです。

 昨日は、午後国会前の辺野古新基地建設反対の座り込みに参加しました。通りがかった大学

生が話しかけてきて、話をしました。札幌の人のようで、札幌にオスプレイが飛んできてびっ

くりしたと言っていました。彼は大学で法律を学んでいるようです。いろいろ話をしていて、

中国や韓国の脅威があるので、日本に米軍の基地たあり、日本が自衛隊を持つのは仕方ないと

いう考え方のようでした。座り込んでいたお年を召した女性たちは、彼に戦争の悲惨さを訴え

ていました。また中国や韓国をかつて日本が侵略した事実について、その賠償もきちっとして

いない戦後の日本の歴史についても話していました。この青年は特別右翼的な考えをもってい

るとは思えませんでしたが、歴史認識が表層的で、深く掘り下げて考えているという印象は受

けませんでした。ただ真面目な感じて、女性たちの話に耳を傾けていました。しばらく話し合

って、別れました。法律を扱う仕事をめざしていると言っていた彼の将来が開かれるようにと

いう祈りにも似た思いを持ちました。

 座り込みが終わって、片づけをして、私は二人の女性と一緒に日比谷公園の野外音楽堂であ

る集会「戦争させない 9条壊すな 総がかり行動」に向かいました。途中で軽く夕食を食べ

て行きましたので、野外音楽堂に着いたのが午後6時を過ぎていましたので、会場には入れませ

んでした。3人で相談して、今日は帰ろうということになり、私は地下鉄日比谷から中目黒に

出て、東横線で横浜に来て、横浜で京急に乗り換えて京急田浦まで来ました。船越教会に着い

たのは8時30分過ぎでした。


       黙想と祈りの夕べ通信(502[-31]2009・5・3発行)復刻版

 フランスを中心にして世界各国に広がったエマウス(パレスチナの小さな村エマオのこと)と

いう運動があります。この運動を指導した人はアベ・ピエールという人です。大分前にこの人が

書いた『遺言~苦しむ人々と共に~』という本を読んだことがあります。先日たまたま書類の整

理をしていましたら、この本からの引用ノートが出てきました。それを読み直して、改めていろ

いろ教えられ、考えさせられましたので、本そのものを探しましたところ、どこにいってしまっ

たのか、見つかりませんでした。4月29日は祝日で黙想と祈りの夕べはお休みにしましたので、

エマウス運動とは何かということと、今回は出てきました上記引用ノートから1、2心に響く言

葉を紹介させていただきます。

 エマウス運動は、1949年11月に一つの出会いによって生まれました。この出会いとは、社会の

不正義に対する責任感と、自分が如何に恵まれた生活をしているかに気づいた人、自分の生き甲

斐すらも失くした自殺未遂の人との、出会いです。恵まれた人アベ・ピエールは、打ちひしがれ

た人ジョルジュに、金銭的な援助や素晴らしい説教をしたのではなく、自分より貧しく苦しんで

いる人々を助ける手伝いを頼みました。自分が無用な人間だと思いこんでいたジョルジュは、自

分を必要としてくれたことによって再起し、自信と誇りを取り戻しました。そして、このような

人達が集まってできたグループ活動が、フランス各地に広がり、やがて同じ精神によって、多く

のグループが世界各国に生まれ、国際的なエマウス運動へと発展していきました。

 エマウスコミュニティは、すべてのエマウス運動の起点です。年齢、人種、宗教、思想、を問

わず、たとえ不幸であったとしても、より真実な生き方を求める人たちの作る共同体です。受け

入れ:エマウスの仲間は、どこから来たか、過去が何であったかは問わない。しかし、住む家と、

安全と、友情と、生き甲斐を求める人を受け入れる。労働:施しを受けるのではなく、自分達の

生活は、自分達の労働で維持することにより、人間の尊厳と自由を取り戻す。この労働は、主に

再生資源回収です。奉仕:この労働によって得た収益は、生活に困っている人、家がなくて困っ

ている人と分かち合います。

 以上がエマウス運動の主旨です。上記ノートから「それでもやはり」について記されている部

分を紹介します。

 「信頼に足る信者とは『それでもやはり』信じるという人だ。子供がトラックに轢かれる、一

家がエイズにかかる、といったなんとしても肯んじられない不幸、不正、あるいは地震、洪水と

いった天災など、神の存在を否定するものとしか見えないものに目をふさがず、それでもなお、

やはり信じる、そういう人だ。信者でない人に、『僕も君と同じように憤慨しているんだ、やり

切れない思いでいるんだ、わたしは神に糾問する、他人の受ける傷にわたしは傷ついている』と

言える人でなければならない。ベルナール・クシュネールはわたしにこう言った。『あなたは信

者だから、問題ない』。わたしは答えた。『信仰があるからといって問題がないなんてことはな

い』と。むすろ、いくら努力しても世界の不幸・不正・災禍はいつ克服できるとも知れないのに、

福音書の一行一行が完璧な世界を作れと急ぎ立てているのだから」。

 「どうしてこんなに多くの不幸が、不完全なことがあるのか? いくらも問いただしたいだろ

う。しかし、もし〈永遠〉は〈愛〉であり、我々は愛されており、〈愛〉に愛をもって応えるた

めには自由なのだということに確信を持つなら、それ以外のことは『それでもやはり』なのだ」。
          

         「神の顔を現すモザイク」     5月3日

 モザイクは、何千という小さな石から出来ています。あるものは青、あるものは緑、あるもの

は黄色や金色をしています。モザイクに顔を近づけて見ると、一つひとつの石の美しさに驚かさ

れます。けれども、一歩さがって見ると、これらの小さな石が、全体として一つの美しい絵を見

せてくれているのが分かります。そしてこの美しい絵は、小さな石一つでは決して語ることの出

来ない物語を語っています。
 それはコミュニティーとして生きる私たちの生活がどのようなものであるかに似ています。私

たち一人ひとりは小さな石です。けれども、私たちは一つになって、神のみ顔をこの世に現しま

す。誰も「わたしが神を見えるものとしているのだ」と言うことは出来ません。しかし、私たち

が一つになっているのを見て、人々は「彼らが神を見えるものとしている」と言うでしょう。コ

ミュニティーとは、へりくだることと栄光とが触れ合うところです。


               (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)