なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(262)復刻版

 今日も、9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(262)」復刻版を掲載します。

 下記に記されています、川崎戸手教会を会場にした在日コリアンの方々に係る私たち自身の問題

について考える神奈川教区のオリエンテーションが、来たる9月22日(日)に今年も行われます。

教区オリエンテーション委員会が、寿と基地の問題と共に、3年に1回行っている集いです。神奈

川教区は教区の宣教の課題として、川崎における在日コリアン、寿における日雇い労働者・野宿

者、横須賀と厚木・座間における基地問題からの問いかけを大切にしてきています。オリエンテー

ション委員会としては、その教区の方針に即してこのような現場研修を繰り返し行っています。


       黙想と祈りの夕べ通信(262[-1]2004・10.3発行)復刻版
 

 去る日曜日(9月26日)に神奈川教区のオリエンテイションの集いが川崎戸手教会で行われまし

た。このオリエンテイションは神奈川教区に新しく赴任された教師及び卒業予定の神学生を対象に

行われています。課題は戦責告白以後の教団問題(万博・東神大、教師検定、「合同のとらえなお

し」など)で何か問われたのかということを共有することと、神奈川教区が宣教の課題としている

現場(寿、在日及び多民族共生、基地、部落差別など)研修です。私は今年4月からこの委員会の

責任を引き受けていますので今回も参加しました。今回のテーマは「多民族共生についてー在日コ

リアンの今」で、川崎戸手教会のS牧師のお話を聞いて、参加者で話し合う会でした。今回も沖縄

被差別部落の問題が沖縄の問題、被差別部落の問題ではなく私たち自身の問題であるように、在

日韓国・朝鮮人の問題も在日韓国・朝鮮人の問題ではなく私たち日本人の問題であるということを

突きつけられました。Sさんのお話を聞きながら、在日の方が日本の社会の中で日常的に自分の出

自を意識させられ、自分は何者なのかということを考えないでは生きられないと言われるときに、

自分はどうだろうかということを改めて考えさせられました。私自身はそんなに日常的に自分は何

者なのかと自問自答しながら生きているわけではありません。しかしそのような自分は在日の方か

らすると日本人だからなのです。存在そのものがその社会によって許容されているかいないかは一

人の人間にとって大変大きなことです。在日の方は日本の国によって無理矢理連れて来られたり、

来ざるを得なかった一世の家族にも拘らず、日本社会に日本人と同じようには許容されていないの

です。私は卑怯にも在日のことを自分の課題として担うことをどこかで避けていたように思いま

す。余りにも重い課題なので。でも孫さんとの出会いを与えられた者としてこれからは避けないで

この課題と向き合っていかなければならないと思わされました。

 続いて一人の方からの発言がありました。また辺野古のことになるが、日々新しい辺野古の情報

がインターネットで伝わってくる。国会前でも座り込みを続けているが、朝集る人が大分少なくな

っている。現地の座り込みは防衛施設局の側から監視されていて、どう突っ込んでくるか分からな

いので、反対側も常に緊張していなければならない。国会前はアッピールの性格が強いためか、そ

れほど緊張はなく、なかなか持続するのが難しい。それでも何人かの人が継続して座り込んでい

る。長くなっているので国会前の座り込みも議員や陳情者から認知されて、時々声をかけてくれる

議員や通行人もある。継続は力なりということを感じている。一番感動するのは、インターネット

の情報を見てやってくる若い人がいることである。この前もそういう若い人が二人来て協力してく

れた。沖縄の辺野古の座り込みにもインターネットを見て,若い人が駆けつけていると言う。イン

ターネットの情報と座り込みの継続によって、少しずつではあるが、一人一人に伝わっていくのだ

ということが感じられて元気が出る。沖縄の状況はニュースによるとますます厳しい海上阻止にな

ってきている。沖縄の新聞やニュースからは辺野古のことが報道されているが、本土の新聞やテレ

ビからは全くと言っていいほど伝わってこない。むしろ、ある意味ではどうでもいい番組によって

視聴者の関心が沖縄に向かないように操作されているとしか思えない。意図的に伏せられているよ

うに思えてならない。そういう意味でメディアの情報は公平でないとつくづくと思う。気がついた

人が気がついたところで訴えていくしかないと思う。