今日も9年前の「黙想と祈りの夕べ通信(261)」復刻版を掲載します。
昨日鶴巻で小さな集まりを開き、荒井献さんの『問いかけるイエス』第20講「仕える者になりなさ
い」~ヤコブとヨハネの願い~を参考にして、マルコによる福音書10章35~45節について話し合い
ました。マルコ10:35~45節は、ゼペダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、「栄光をお受けになる
とき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と、イエスに願ったという
物語です。実は、この二人の願いは、マタイの並行記事では、二人が直接イエスに願ったというのではな
く、二人の母親が願ったということになっています。マルコとマタイの並行記事で、これほど明らかな違
いがあることに、その日集いに参加した人は驚いていました。この部分は、「あなたがたの中で偉くなり
たい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(奴隷)になりなさい。人
の子は仕えられるためにではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために
来たのである」(43-45節)という言葉があるところです。
黙想と祈りの夕べ通信(261[-52]2004・9.26発行)復刻版
昨日電話で未知のある女性から相談を受けました。それは22歳になる息子がリストラで仕事を失ってし
まい、母親として彼にどういう風に関わったらよいのかというのです。お聞きするところ息子さんとして
は三つほど自分の進路を考えているようなのです。しかし、母親としてその一つ一つの進路がなかなか実
現の可能性がみえないので心配だというのです。私は何とも言いようがありませんでしたので、自分の息
子の例をだして、結局本人が自分のしたいことを見つけるまで、親としては待つしかないのではと申し上
げました。私の息子は高校中退後一時期会社に勤めたことはありましたが、そこも辞めてほとんどがいわ
ゆるフリーターで現在まで来ています。さすがに30代半ばになろうとしていますので、自動車の免許を生
かす仕事はどうかとか、ヘルパーの資格を取ってみたらとか言って、何とか自分で食べられる定職につけ
るようにと勧めてはいますが、本人次第です。そういう話をその電話の女性にしました。その日は午後7
時から集会があり、集会の時間が迫っていましたところで、ちょうど割り込み電話が入りましたので、そ
の方の電話を切らせてもらいました。ただ、私の勝手な思い込みかもしれませんが、その女性の声が、電
話をかけてきたときと切るときでは心なしか違ったトーンに聞こえました。かけてきたときは、いかにも
不安そうな声でした。切るときは少し明るい声になっていました。その方の息子さんは22歳ということで
すが、私の息子は既に30歳を過ぎています。私はその方の相談にのったわけではありませんが、その方と
余り変わらない問題を抱えてきていますので、私の話を聞いてその方が自分だけではないと、少しほっと
されたのかも知れません。それにしても、現在の日本の社会では若者が自分の仕事を見つけて定着するこ
との困難さを感じます。おそらく電話をかけてきたこの女性の他にも沢山の方々が同じ悩みを抱えている
のではないでしょうか。リストラにあったり、自分の仕事が見つからない青年たちのことも忘れないでい
たいと思います。
(注記:上記の私の息子は、ホームヘルパーの資格を取り、現在特養老人ホームに勤めています。)
上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。去る日曜日の週報では75歳以上の教会員
の名前が載っていて、85人ということである。非常な驚きと、教会は高齢化では社会の先取りをしている
ことを感じさせられた。紅葉坂教会の現住陪餐会員の三分の一である。その中には毎日曜日元気に礼拝に
来ておられる方もあるが、来られなくなった方も増えて来ている。自分は礼拝では後ろの席にいるが、そ
こから前を見ていると白髪の会衆が多い。反面幼児祝福に出てくる日曜学校の子どもたちも結構いる。去
る「老いること」を語る礼拝では、その子どもたちが自分たちで作ったメダルをお年寄りの方々の首にか
けた。お年寄りと幼い子どもたちの織り成す光景はほほえましかった。私たちの教会は教会員の子弟やお
孫さんが遠くからでも日曜学校に来るので恵まれていると思う。ただ子育ての最中のお母さんたちが礼拝
に出席できないことが多い。青年層も会衆にちらほらいるが、礼拝の会衆は圧倒的に高年齢化している。
世代のバランスが片寄っている。地域や教会の歴史にもよるが、中には比較的若い人達が礼拝に出席して
いる教会もあると言う。しかし若い歴史の教会では教会への愛着が薄く、都合がよいときは来るが、去っ
て行く人も多い。紅葉坂教会は私の教会という愛着を持って日曜学校繋がりで集う者が多い。あのお年寄
りの方々の首にメダルをかけた子どもたちが教会に繋がっていき、この教会の歴史が続いていくことを想
像しながら礼拝に与った。