なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(560)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(560)復刻版を掲載します。2010年6月のものです。

 昨日はクリスマス礼拝を共にしました。クリスマス礼拝の時だけ来られる方もあり、船越教会でも

礼拝出席者が21名でした。礼拝後食事を共にし新しい方の自己紹介などもあり、ひと時和やかな交

わりの時を楽しみ、散会しました。


       黙想と祈りの夕べ通信(560)[Ⅺ-38]2010・6・20発行)復刻版


 6月6日の黙想と祈りの夕べ通信で、私は二人の平和運動家であるおばあさんのことを記しました。そ

の内のお一人は6月4日の夜開かれた国会前の集会ではじめてお会いした方です。道行く自動車や人に首

からかけていた「沖縄に基地はいらない」という横看を差し出して訴えておられた方ですが、今は大分

に住んでいるそうです。ですから、その時もわざわざ大分から東京まで来られたというわけです。先日

ピースおばあさんと国会前の座り込みでお会いし、こういう方がいらしたと上記のおばあさんの話をし

ましたら、ピースおばあさんはその方をよく知っておられて、いろいろ話してくれました。今は大分に

住んでいますが、以前は長野に住んでいて、先日私が国会前でお会いしたように、長野から集会に参加

するために横看を首からかけてきていたそうです。また、この方は、70年代の学生運動が過激化し、爆

弾闘争で捕まり、セクトも家族も見捨てた学生と養子縁組をして最後まで面倒を見た方だそうです。ピ

ースおばあさんも、さすがにそこまでされるこの方のことをすごい方だとおっしゃっていました。

私は、改めてそういう方がいるということに驚き、ある種の衝撃を受けました。70年の頃、運動に加わ

った学生と家族との間の葛藤が問題になったこともあり、運動が過激になればなるほど、その運動に加

わった学生の側は、孤立化せざるを得なかっただろうと想像します。そのような時代に、このおばあさ

んのような行動をとる人がいたということを聞いて、何かほっとさせられるものがありました。また人

間はまんざらでもないのだという思いをもつことができました。

 上記の私の発言に続いて、Kさんから、部落解放全国集会(6月7日~9日、東京で開催)に参加しての報

告がありました。解放セターのTさんの講演では、部落解放センターとして性差別問題特別委員会が教団

総会でつぶされた時も、セクシュアル・ハラスメントのときも、同じ差別の問題であるから声を挙げるべきであるのに、

きちっと声を挙げなかったことの反省を述べ、沖縄の辺野古のことも、北村牧師の戒規免職のことも、

切捨てを許さないとう声を挙げていきたいといわれた。またフィールドワークでは被差別者が自分の差

別的な体験を話してくれた。今週の黙想と祈りの夕べ通信にあるヘンリー・ナウエンの言葉の中に、「人間の愛は

不完全である」と言われている。心の歪み、憎しみのはけ口として差別が生まれる。被害者は追い詰めら

れて、自分の命を絶つまでなってしまうこともある。今回の全国集会に参加して、いろいろな気づきを与

えられた。人間の命の尊厳を大切にしたい。

 別の方からの発言がありました。普天間基地移設に関する日米合意が交わされて以後ここ2,3週間、自

分の中に怒りについての鈍感さがにあることを感じている。性差別問題委員会の委員長をしているが、

全国の仲間に出会って一つ一つの事柄に是は是、非は非と言える先輩がすごいと思い、姿勢に学びなが

ら自分も先輩に追いついてきた。先日も常置委員会で按手礼を志願した女性教職に対する一常置委員か

らの質問があった。その常置委員の質問には明らかに差別的な見方が含まれていた。彼女はその質問が

おかしいとはっきり言いかえした。自分も質問が何かおかしいと思いながら、自分の中には怒りがすぐ

出なかった。こんな自分が性差別委員会の代表をしていていいのかと思わされた。辺野古で体を張って

基地建設反対をするようになってから6年が経つ。自分も辺野古に基地を作ろうとする政府に怒りを感

じて関わってきた。辺野古の海に基地建設を目的とした作業船が出たり、杭を打ち込んだときに、カヌ

ーによって体を張って阻止している現実を自分の目で見ているので、今回の日米合意を沖縄の人たちは

どんな思いだろうか。沖縄の人たちに何でもかんでも共感できるとは思わないが、自分の中には甘さが

あるように思えるのだ。もっと何かできないか。学ぶ機会には出かけていくくらいで、沖縄の人たちの

苦しみを思うと、自分の甘さに気づかされている。今回の日米合意に対してもしっかりとした視座をも

って関わっていけたらと思っている。


           「正しく生きる、正しく語る」    6月20日


神の証し人となるということは、この世界に神がおられることの生けるしるしとなることです。どのよ

うな生活をしているかということのほうが、どんなことを話しているかということよりも重要です。と

いうのも、本物の生き方は、常に本物の話し方に繋がるからです。隣人を心から許す時、私たちの心は

許しの言葉を語るでしょう。感謝の思いに溢れる時、感謝の言葉が語られ、期待と喜びに溢れる時、期

待と喜びの言葉を語るでしょう。言葉が時期尚早に語られても、その言葉の通りに行っていないなら、

私たちは二重のメッセージを伝えかねません。言葉と行いがちくはぐなまま語る時、私たちはその二重

メッセージによって偽善者となってしまうでしょう。私たちの生き方が本物の言葉を私たちに語らせ、

私たちの言葉が私たちを本物の生き方へと導きますように。


                  (ヘンリ・J・M・ナウエン『今日のパン、明日の糧』より)