黙想と祈りの夕べ通信(343)復刻版を掲載します。2006年4月のものです。
黙想と祈りの夕べ通信(343[-30]2006・4.23発行)復刻版
この前の日曜日の説教で私は、聖書の救済は個人を含む全体の救済ではないか、ということを話しまし
た。そのことを今日は繰り返したいと思います。聖書の救済が全体の救済であるということは、神の国の
完成を意味する終末のイメージにはっきりと示されていると思います。例えばキリスト教の教義としての
最後の審判を経て救済が完成するという信仰は、神の愛の絶対性に基づいた信仰的・神話的イメージの拡
張として私は理解しています。時々葬儀の時に話すことがありますが、事実としては、人間は死んで終わ
りだと思います。高村光太郎に「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という言葉があります。人間
が死ぬと、体は火葬され、骨が埋葬されます。自然に帰るというか、土くれで造られた人間は死んでまた
大地に戻るというか。それで一巻の終わりです。一人の人間が死んでいなくなっても、自然は泰然自若と
してそこにあり続けているのです。ちっぽけではかない人間と永遠で雄大な自然の対照が見事です。骨に
なって埋葬された人間が文字通り復活するなどということは事実としてはあり得ません。しかし、罪ある
人間が死んで、罪がしみこんだ体が亡び、神の御心を一点の曇りなく生きられる新しいからだに、最後の
審判を通して復活するという信仰的・神話的物語は、信仰をもって生きる者には大変大きな慰めと希望で
す。そして神にある最後が、「『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民とな
る。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死
はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(ヨハネ黙示録2
1:3,4)と言われているのも、私には大変美しい終末のイメージに想えてなりません。そのヨハネ黙
示録の終わりのイメージが神と人間、人間と人間の平和として描かれていること、そして「人は神の民と
なる」と言われていますように、私たちが一人一人救済に与りうるとしたら、神の民の一員としてである
ことを忘れてはならないと思います。そういう意味で全体(神の民)から切り離された個の救済などあり
得ないと言えるのではないでしょうか。
上記の私の発言につづいて、一人の方からの発言がありました。昨日教区の性差別問題特別委員会があ
った。そこで教団出版局で問題になっている、聴覚障がいの人が課長心得の人から受けているパワー・ハ
ラスメントに対する性差別問題特別委員会の抗議についての常置委員会における一常置委員の対応のあり
方について話し合われた。その常置委員は、抗議はどのような事実に基づいてなされたのか。両方の立場
を調べて抗議したのかと、あたかも性差別問題特別委員会が出した抗議が不当であるかのごとき発言をし
たと言う。性差別問題特別委員会では、私たちは弱さをもった人の声を聞いて何ができるかを考えていか
なければと、みんなで話し合った。この問題とは違うが、私は沖縄からの問いかけについて気にはしてい
ても、今までは見ないふりをして無視していた。しかし、あることを契機にして沖縄からの問いかけに応
えていきたいと思うようになった。そうなれた時、ますます他者の弱さ、痛み、苦しみに対して敏感であ
りたいと思うようになった。そういう自分の体験からすると、一常置委員のように痛んでいる者が全く眼
中にない形式的な発言が出てくること自体驚きに感じられる。自分としては小さく弱い他者の声に耳を傾
けることを心がけ、祈っていきたい。