黙想と祈りの夕べ通信(342)復刻版を掲載します。2006年4月のものです。
今朝新聞(神奈川)を見たら、安倍政権は辺野古の埋め立てを、名護市長選の結果に関係なく進めると
いうことで、業者との契約に入るという内容の記事が出ていました。この国の政府は、明治以来その土地
で黙々と生活している人々のことを考える視座をもたないまま、現在に至っていることをしみじみとこの
新聞の記事を読んで思いました。
黙想と祈りの夕べ通信(342[-29]2006・4.16発行)復刻版
今回私は風邪気味で発言を控えました。一人の方から以下のような発言がありました。
自分が関わっているNPOで仕事をしている女性の2歳の男の子を2時間半預かり事務所で絵を描いたり、
字を書いたりして遊んできた。その子どもとの時間が至福の時として感じた。自分が子育ての時は、子育
ての時間を至福の時として過ごせたかと言えば、そうではなかった。出来るはずが無いが、今子育てが出
来たらと思うこともある。アメリカなどでは親でも子どもをひとりの人格として対等に接しているところ
がある。日本の場合は、早くしなさいとか、命令形で親が子どもに言うことが多い。子育てにおいても女
性は家事をしながらなので、今日の2時間半のように子どもと専心して付き合うことは難しい。自分の親
子の関係はよくなかったと思っている。子どもたちが30歳を過ぎて、やっとはじめて別人格に思えるよう
になったと思う。自分自身が人格的に育てられてこなかったので、その再生産を子どもたちにしてしまっ
たように思う。2歳の男の子との2時間半で、子どもにこういうアタックをすれば、この能力が引き出さ
れ、また別のアタックをすれば、別の能力が引き出されるという経験をした。私自身も様々な人との出会
いによって、その関係性の中から自分の善さも醜さも引き出される経験をしている。自分だけでは気付か
ないことを他の人との交わりの中で引き出されることによって気付くという経験である。イエスの十字架
の道行きは決してイエスの望んだことではなかったが、その道を歩まざるを得なかったのだと思う。その
ことが2000年後の今も、十字架の苦しみから復活への導きとして伝わっており、無限の力となっているの
だと思う。関係性によって引き出されることを思うと、不思議な導きである。
続いてもう一人の方の発言がありました。手首を骨折して一週間になる。最初の3-4日はゆとりが無か
ったが、今は少しゆとりも出来考えることが出来るようになった。負け惜しみではなく、このことがあっ
て人の愛情、情けを受けることが出来、本当に感謝している。大体怪我の目安も立ってきた。今回のこと
を貴重な経験としていかれたらと思っている。
また、別の方の発言がありました。僕は最近本物にこだわりを持つようになった。以前に話したことが
あるかもしれないが、去年は高校3年生を担任して、いくつかの大学を訪問した。よい大学の基準として
通常施設、教授陣、就職率などが挙げられる場合が多い。しかし、それらの基準によって大学の価値が決
められるとは思えない。自分が訪ねた大学の一つに県立の保健大学がある。管理栄養士の養成をしてい
る。まだ開学3年で卒業生を出していない。その大学でAさんの話を聞いた。Aさんは、大学の掲げる目標
として、管理栄養士の資格を取って就職に有利だからということではなく、この技能を身につけた若者を
開発途上国に送り出し、その国の人々のために働くような人材を育てたいということをおっしゃってい
た。そして新しい大学だが、その掲げる目標に向かうエネルギーが大学全体に漲っているのを感じた。本
物を求める志の大切さを教えられた。そのことは自分自身の課題でもある。イエスは本物をめざされた方
だと思う。そのために自らが痛み、妬まれもした。そのような他者との関係生の中でイエスは死を遂げら
れたのだと思う。このような本物をめざしていくことが私たちに求められているのではないか。それは学
校でもそうだし、教会でも同じではないかと思う。