なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(174)復刻版

 
 昨日は教区の常置委員会がありました。そこで教団の宣教研究所から出された「改訂宣教基礎理論試

論」について話し合いがありました。最初に、常置委員のMさんが読んできた感想をを述べ、続いて参加

者からの自由な発言がありました。それらの発言・意見はいずれまとめられて教団の方へ送ることになっ

ています。Mさんは、今回の改訂宣教基礎理論試論を読んで、自分の心に響かなかった。1963年度の宣教

基礎理論の方はなるほどと、自分の心に響くものがまだあるように思う、と言われました。この「心に響

かなかった」という言葉が、今回の宣教基礎理論の観念性、抽象性をよく言い当てているように、私には

思われました。

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(174)」復刻版を掲載します。



          黙想と祈りの夕べ通信(174-17]2003.1.26発行)復刻版

 今日は礼拝後にお餅つきが階下ホールで行われました。私もつきたてのお餅を食べました。その時テー

ブルの向かいにはWくんとYくんがそれぞれお母さんと一緒にいました。いろいろ話をしていて、Wくん

がこの4月から幼稚園に入り、お姉さんのMさんが小学校に入ることを知りました。WくんとYくんとは2

年の開きがあることも知りました(Yくんの方が小さい)。見かけでは二人はそんなに年の差があるとは

思えませんでした。Hくんも4月には小学5年生とのことでした。いつの間にか子どもたちは確実に成長し

ているのだなあと、感動しました。先日Fさんが「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決

して入ることはできない」(マルコ10:15)の聖書の言葉から幼子について祈祷会で話しました。私は目

の前にいる幼子を見ていて、ふと子どもは「小さいもの」「弱いもの」を意味するだけではなく、大人の

文化の洗礼を受けていない無垢さを象徴しているのではないかと思わされました。この世で小さなもの、

弱いものには、子どもと同じような無垢さがあるのではないでしょうか。私たちがなすべきことは、その

ような小さなもの、弱いものを助けることではなく、小さく弱いものに参与することではないでしょう

か。そんなことを子どもたちを見ていて思わされました。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。自分も今日の日曜学校で感じたことを話

したい。日曜学校の礼拝でM先生が、漁師がイエスさまについていく弟子の召命の記事から説教した。

「弟子たちは親を捨てイエスさまについていきました」とM先生が言われると、すぐ子どもたちから「そ

れはかわいそう」という反応が返ってきた。そのようにM先生と子どもたちとの間でキャッチボールがス

ムーズに行われ、結構長い説教だったが、子どもたちも集中していた。説教にコメントする子どもたちの

素直な思いを子どもたちがそのまま持ち続けて成長したら素晴らしいと思った。その礼拝での様子をビデ

オに撮って見せてあげたいくらいだった。子どもたちと大人の両方がそれぞれの言葉や振る舞いによって

自分らしさを引き出される関係ができたら素晴らしい。私たちは大人になると、素直に自分を出せなくな

り、かえって自分を抑え込んでしまうのではないだろうか。また礼拝後も、旧約聖書ダビデ王のビデオ

を鑑賞したが、そのビデオを一時間位子どもたちがじっと見入る姿を見ていて、子どもたちの集中力はす

ごいと思った。M先生とのキャッチボールやビデオに集中している子どもの姿に、希望を感じることがで

きて嬉しかった。

 別の方からも発言がありました。今日の教会でいただいたお餅が、今までのうちで一番美味しかった。

Tくんが甘えるように、ジャンパーの紐が抜けちゃったの、と私のところに来た。ここには紐通しがない

ので、今度入れてあげるからねと話した。小さな子供との出会いがあったり、美味しいお餅をいただいた

りで、楽しい一時だった。お正月から聖書を読み始めたところ、創世記がとても面白く、あっという間に

読み終わった。小説でも読むように聖書を読めた。次のところに読み進んでいる。こういう聖書の読み方

でよいのか、後で先生にお聞きしたい(後で、いいのではないでしょうか、と私は答えた)。自分は穏や

かに毎日を過ごしている。自分は教会一辺倒でコチコチに人から見られるのではないかと思ってきたが、

そんな自分にも柔らかさが出たらと思う。



        「百卒長の信仰」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
  イエスはこれを聞いて非常に感心された。   マタイ8:10


 この事件の中で、明らかに、二種類の奇跡が起こりました。いやむしろ、二重にあらわれたひとつの奇

跡といったほうがよいかもしれません。一つは、主がなされた奇跡であり、他方は、百卒長のものです。

聖書は、イエスご自身、百卒長がこのように強い信仰を持っていることに非常に感心されたと語っていま

す。そして、キリストが奇跡とみなされるものは、わたしたちも奇跡とみなさなければなりません。

 キリストが、盲人の目を開き、耳しいを聞けるようにし、らい病人をきよめられたみわざを見て、人々

は大きな奇跡だと思いました。そして、たしかに、それらは大きな奇跡です。しかし、キリストは魂のう

ちに起こる奇跡を、身体に起こる奇跡よりも高く評価されます。このように、魂は身体よりも貴重なもの

ですから、ここでキリストが非常に感心された奇跡は、たしかに、身体に起こった他のどの奇跡よりも、

偉大なものです。

 こうして、ここで二種類の奇跡が起こったように、この二種類の奇跡は今日まで起こり続け、また、さ

ばきの日が来るまで起こり続けるでしょう。キリストは毎日、奇跡を起こされ、いつまでもそうされま

す。そして、からだの奇跡は、キリストが地上におられた時も少なかったように、今日においても少ない

のです。これらの奇跡はキリスト教会が基礎をすえられるためにのみ起ったものです。しかし、キリスト

が奇跡であるとして非常に感心されたしるしは今日起こり、また、いつまでも起こり続けるでしょう。そ

れはカペナウムでこのローマの百卒長がもった信仰です。人がこのようにすばらしく、強い信仰をもつこ

とができるのは、たしかに奇跡であり、偉大な奇跡です。キリストは、この百卒長の信仰を、あらゆる奇

跡にまさる奇跡であるかのごとく、たたえられたのです。

                           1535年の説教から