なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(163)

 今日は「父北村雨垂とその作品(163)」を掲載します。

 ここ数週間月曜日から木曜日午前中まで鶴巻でのんびりする時間が少なくなっています。今日も夕方か

ら蒔田教会の教育館で開催される神奈川教区の常置委員会に出席するために横浜に出ます。明日も午前中

に、私のところで預かっている署名もありますので、東京地方裁判所に私の裁判に関わる「公正判決を求

める要請書」署名を提出してきます。これが最後になりますが、署名は全部で4,000筆を越えています。

最終的にどのくらいになるか、明日にははっきりするでしょう。短期間にもかかわらず、また教会内では

聖餐の問題ということでこの署名にはなかなか協力していただけない教会も多かったと思いますが、これ

だけの沢山の方々から署名をいただけたことは、今後の裁判闘争をはじめ教団内運動にとっても大きな力

になります。本当にありがとうございました。 



              父北村雨垂とその作品(163)

父の遺した原稿は、後3冊の日記帳になりました。「四季・第一號」「四季・第二號」「風雪」です。

「四季・第二號」は、ほとんど父の作品を自分でまとめたもので、すでにこのブログで紹介したものが大

部分だと思います。この三冊の日記帳の時系列からすると、「四季・第一號」がはじめではないかと思わ

れますので、今回から原稿日記「四季・第一號」を順に、このブログに掲載します。

 
             原稿日記「四季・第一號」から(その1)

 「禅の目的は開悟(悔悟?)にあるが、開悟(悔悟?)と云ったとて別に変った様子を云ったのではな

く、眞個この非思量に体得して行住座臥が眞に非思量を離れなかったならば、その人は吾が禅門に於いて

直ちに安心立命の人と云われよう」(秋野孝道著『禅の骨髄』  頁)。

 ここで云われる非思量とは西田幾多郎著『善の研究』に述べられている純粋経験であり、さうした意識

は客観、主観以前の眞の純粋意識であると考えられる。故にこの純粋意識をそのまま継続できること、さ

うした体得が悔悟即ち解脱よ云うことになると考えられる。もちろんこれには相当に困難なる体得の仕方

であろうとは考えられるが、座禅を基盤とする修行が即ちこの目的達成への手段と云えるのではないであ

らうか。

 「禅の骨髄の中で『万法と自己とが一体となり、主観と客観とが即ち世界と吾れとが全く一つになった

ところを云ったのである』と、この世界と吾れ以降のうちで云われた世界とは、現象の世界即ち世界現象

と云う意味であらうと、私雨垂にはさう考えられるのである。

                             1982年(昭和57年)7月28日

 意識はもと生命体に存在しているものではなく、何らかの意味に於いて生命体に刺激が当てられたその

時点に於いて生命体自体、つまり生命体そのものが何らかの意味による刺激と同時に意識として感応する

のである。即ち刺激が生命体に意識として刺激を受納する。コトバを換えて云えば、反応するのである。

即ち刺激が生命体に意識として受納する生命体そのものの生産と考えられる。一般に考えられている「こ

ころ」とは、この刺激によって働く生命体自身の働きである。

 古来の禅者が「無」と曰ひ「空」と云う斯うしたところの意味をこの前述した〈こころ〉が現象である

ところの意味に於いて結論として無と云ひ、また空と断じたところの意味は、この前述した「こころ」が

現象であることの意味に於いて、結論として無としまた空と断じたとすれば、少なくとも納得出来るテー

ゼであると云えるのである。
                              1982年(昭和57年)7月28日

 仏教に於ける粘(?)華微笑は仏教に於いて創始された、いわば文学的表象(表現)であると観て差支

えないと、私には考えられる。この様な例は決して仏教に限ったことではなく、他の殆どの宗教にみられ

る現象であるとも考えられる。日本に於ける「古事記」と似たものであり、この意味に於いて私が宗教を

も神話として観る根拠としている訳である。
                              1982年(昭和57年)8月18日

 ショーペンハウエルの意志と象徴の世界という観方は或る意味で肯定することが、さうした世界観の彼

氏が生存、つまり実存に於いての生死にあまりにも神経質であった様に、何かの折に読んだことがある

が、それが事実であったとしたなら彼の哲学は全くでたらめで単なるペンの遊戯でしかないと云はれても

致し方ないであらう。哲学はあくまで眞剣に討究するべき宿命を負わされている学であるべきである。

                              1982年(昭和57年)9月5日

    反省か客観か

 コギト・エルゴ・スムが観念的であるなら、スム・コギト・エルゴ、吾れあり、故に考う は唯物論

であると観るか、いづれにしてもこの場合「吾在り」は「吾れ」を客観した、即ち自己を存在的に対象化

したノエマノエシス化 ―ノエシス的働きとしているところに私の興味が集中される。(註:表現にい

ささか気にかかるものがあるが目下考慮中)
                              1982年(昭和57年)9月27日