なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(173)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(173)」復刻版を掲載します 
  
      
       
        黙想と祈りの夕べ通信(173-16]2003.1.19発行)復刻版


 先週の木曜日にありましたキリスト教入門講座で、「家族の問題」を考えました。テキストにしていま

す『現代を生きるキリスト教』の第二部、第2章「家族の危機と再生」の後半を読んで、話し合いまし

た。この本の構成は各章、第一講が聖書、第二講が歴史、第三講が思想という風になっています。その日

は第2章の第二講、第三講を扱いました。家族の問題をキリスト教の歴史ではどう取り扱われてきたかを

学び、思想の部分では現在の課題に触れています。それぞれの項目が大変大きな問題ですので、この本の

分量では十分に扱うことはできませんが、それでも考えるヒントをいろいろ与えられます。今回の家族の

問題で考えさせられましたことは、夫婦、親子、兄弟姉妹によって構成されている肉親の家族にとって、

それぞれの関係に「第三のもの」をもつことの重要さが述べられていました。第三のものとは、例えば夫

婦であれば、夫婦は相互の直接的な関係をそれぞれ担って生活しているわけですが、たとえば夫婦にとっ

ては子どもも第三のものになり得ます。子どもの成長のために二人が協力して共に努めることによって夫

婦が一つになっていくとき、その家族の絆が深くなるということもあるでしょう。けれども、子どもの場

合では、夫婦家族の一体性が内に閉じていくでしょうし、場合によっては、子どもが負担になり、両親の

犠牲になるということも起こり得ます。この本の著者はバルトに従って、第三のものとして「神の戒め」

を考えます。神の戒めのもとにひとつの家族となる可能性を示唆しているのです。その家族は、血縁の絆

を越えて、ある意味では民族、国家の枠をも越えて、ひとつの大きな神の家族を想定できるかもしれませ

ん。人類家族のようなものとして。さて、私は今日の説教でも触れましたが、最近の吉本隆明の著書『ひ

きこもれ』を読んでいて、自分の子どもたちに対して申し訳なかったと思いました。それは、吉本が小さ

い時の二人の女の子に対して心がけたことがその著書に書かれているところを読んでです。吉本は、自分

は子どもが何かに集中しているとき、遊びでも勉強でも、子どもの時間を分断しないようにした、と言う

のです。特に女の子だから安易に家事労働をさせやすいので、買い物など子どもが集中しているときには

自分でするようにした、というのです。さすがだなあ、と思いました。それに反して私はダメだったと、

子どもたちに申し訳なく思ったという次第です。

 上記の私の発言に続いて一人の方からの発言がありました。今日は礼拝の幼時祝福の時に子どもが誰も

いなかった。日曜学校には来ていたが、地域で餅つきがあるなどで主日礼拝前に帰って行った。ゆとりの

教育ということで、土日に行事が組まれることが多くなった。自由に子どもたちが何をしてもよいという

のではなく、プログラムに子どもたちが組み込まれることがあるようだ。当然子どもたちは受け身にな

る。

今日の日曜学校でゲームをした。その時お正月なので福笑いのゲームをした。それぞれ目や鼻をつけて顔

にするのだが、子どもたちは引いてしまった。うまくできないといやだからという態度の子が多かった。

出来上がった顔を見ても余り笑いもしなかった。どうも今の子どもたちは失敗を恐れているところがある

ようだ。笑いの質も変わってきているように思う。シビアーなところで笑い、笑ってよいところで笑わな

いところがある。福笑いのゲームを積極的にやりたいと言ったのは一人ぐらいで、後は、子どもたちは順

番だから仕方なくやっている感じだった。日曜学校にくる子どもたちはいろいろな地域から来ているが、

地域は違っても同じように育てられているように思われる。生き生きと失敗しても元気に生きていける子

どもになって欲しい。



        「新しいきよめ」(『ルターによる日々のみことば』より)

 
 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ4、5斗もはいる石の水がめが、六つ置い
 
 てあった。                  ヨハネ2:6

 ユダヤ人が儀式的なきよめをするための六つの石がめは、旧約聖書のならわしに従ったもので、それ

は、律法と戒めによって、外面的にのみユダヤ人をきよめました。ですから、福音書記者ヨハネは、かめ

が、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、おいてあったと言っております。このことばによってヨハネ

は次のように言いたかったのでしょう。これは、信仰なしのわざによるきよめを意味しており、心はきよ

めない。それどころか、もっと汚すものである。

 さて、水が酒に変えられたということは、律法の理解が和らげられたことを意味します。すなわち、福

音が来る前には、律法はわざを求めるものとして理解され、わたしたちはわざによって律法を成しとげる

と考えていたのです。このような理解からは、当然、石がめよりもかたい、がんこな、高慢な偽善者が生

まれできます。また、不安な良心が生じます。しかし、福音は、わたしたちがやれる以上のことを求める

律法の形を変えてしまいます。律法を成しとげるには、わたしたちと違った人間であることが必要だった

のです。しかし、今や、律法はキリストを求め、キリストをさし示し、キリストの方へと追いやるように

なります。それによって、わたしたちが、キリストの恵みを通し、まず、信仰によって、キリストや他の

キリスト者に似るものにつくりかえられ、それから、まことのよいわざをするのです。このように、恵み

の福音はやってきて、水をぶどう酒に変えます。そして、この時、律法は貴重なものとなり、美味となり

ます。律法は、突然、深く、高く、きよく、まことによいものとなり、永遠にたたえられ、愛せられるよ

うになります。なぜなら、このようにすばらしいものを要求しているからです。こうして、以前には、困

難があり、全く、不可能であったことが、いまや、容易で、楽しいものとなります。

                             顕現節第二主日説教