なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

父北村雨垂とその作品(164)

 昨日私の支援会事務局長のKさんと裁判所の「厚生判決を求める要請書」署名を提出にいきました。外

は霙の降る寒い日でした。今回が第3回目ですが、連名1292筆、個人・団体55筆を提出しました。

これで一応〆切までの全部になります。全体で連名4556筆、個人・団体332筆、合計4888筆に

なります。〆切後にも来ると連絡があったゆですので、もう少し増えるかもしれません。5000筆には

届きませんでしたが、約40日間で支援者から広げていただいての署名活動としては、本当に沢山の方々

にご協力いただき、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。


 今日は「父北村雨垂とその作品(164)」を掲載します。


              父北村雨垂とその作品(164)
  
  原稿日記「四季・第一號」から(その2)

 仏教に於いての禅は縁起即ちそれによる因果なる現象と、それまでは正しく認識されているが、その現

象とは因の基体、即ちカントが云うところの物自体と云うものを簡単に「空」と断じているところに吾人

の満たされないものが残る。つまり今一度考えざるを得ない何物かが残る。それだからといってそれを解

決するものを持っている訳でもない。故に現在は唯次の如く結論するにとどめる。

 即ち吾人はその持てる先験的理性による意識として設定する許りである。この先験的理性意識は世界を

構成するものとして空間と時間を設定したことと軌を同じくする。経験的理性による批判はもとより甘受

せねばならぬと覚悟はしてゐることに於いての吾人の設定である。

 さればここに禅者の頌に準じて拙いながらも詩らしきものを記して責をふさぐこととする。

 詩は

 誰でも皆な大きな風船を脹らせて

 宇宙の底へ登りつめようとするが

 何時もその風船が途中でパンクしてしまう

 人間が開発した数千年来の文化も

 何故かその中間の処で困惑してしまう

 それから一歩も登れも降れもしない

 現象は未だに「空」の仮面をつけてほほえんでいる

 禅者を横目で見過ごしている

 独り「破れ風船」をいとおしむばかりでいる
         
                       雨垂   1982年(昭和57年)10月3日

 私が 世界を現象した素材、つまりその本体をとりあえず「エトヴァス」と指考する理由は従来多くの

人類が神とか仏とか表徴していた創生觀が余りにも不合理な捏造に過ぎないものであると想えたり、また

文化に遠いいわゆる原始人の世界に於いての或る種の恐怖に起因する発想であらうと思考したからであ

る。その意味に於いてキリスト教や仏教を始めあらゆる宗教にも当てはめることが出来る。禅者秋野孝道

師がその著『禅の骨髄』に於いて(127頁6行)古則の中に「慮陵の米作麼の値ぞ」と云う言葉があるが、

この作麼の値がいい禅と云うは「作麼(ソモ)の値」を名づけたものであると云っている。仏語辞典」によ

れば作麼とは中国の俗語で「何か」を意味しているとある。この作麼の値なる「響き」に重大な意味が含

まれていると語る孝道師の指摘に同調せざるを得ない。中国古典選(六)老子の著者福永司氏はその解釈

に於いて老子が巧みに言表している「何か」つまりエトヴァスと再三に亘って書いているが、皆私が語ら

うとする「エトヴァス」と意味を同じうするものと観て差支えないものである。.話を戻すがこの神、

仏、如来は即ち動物の中で人間だけが持つ心即ち精神であり、構成であり、傑作でもある。唯重大なこと

はこのアポステオリより来る「何か」と現象と観るアポステオリより来る「何か」の対照に矛盾が目立つ

ことは否定することも出来ないようである。次の考察にへーゲルその他がよく口にする弁証法に委譲する

以外に求めることはかなり困難を感ずる様である。
                    
                             1982年(昭和57年)10月8日 雨