なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(175)復刻版

     
 昨日夕方鶴巻を出て、戸塚にあるフォーラムの集会室で行われる「秘密保全法案」の講演会に参

加しました。日本弁護士連合会・秘密保全法制対策本部事務局長の弁護士清水勉さんの「秘密保全

法案の現状と問題点、だれのための秘密保全か?」という講演を伺いました。この集会は神奈川教

区の国家秘密法反対特別委員会と「九条戸塚区連絡センター」の共催で行われました。

 この集会で私が得た最も大切な言葉は、質疑応答の中で清水さんが話されたことです。それは、

今はインターネットで情報を得易くなっている。その情報に基づいて自分で考えることによって、

「自分自身が変わることによって世界を変えて行く」ということです。


     今日は「黙想と祈りの夕べ通信(175)」復刻版を掲載します。
  
      黙想と祈りの夕べ通信(175-18]2003.2.2発行)復刻版

 お正月の年賀状をいただきました。私自身は今までも全く年賀状を出していませんので、いただ

く年賀状もそんなに多くはないのですが、以前働いていた名古屋のG教会関係の十数名からも毎年

いただいています。今年はその中の一人の年賀状に、大変気になる文面がありました。それは、

「教会は小さい者や弱い者に対して暴力的だ」というのです。これは大変大事な指摘ではないかと

思います。例えば昨年の教団総会でのことですが、沖縄教区から出されていた「名称変更」議案を

総会は廃案にしてしまいましたが、これは私たちの教団が沖縄からの声を切り捨てたことを意味し

ます。多分沖縄の教会の方々にとっては、教団という教会は暴力的な存在に映ったに違いありませ

ん。総会終了時に、沖縄の教区議長山里牧師は、そのような発言をして退場されました。なぜそう

なるのでしょうか。小さな者や弱い者の声に耳を傾けるのが、イエスを主とする教会としては当然

なことではないかと思うのですが、どうも現実の教会は暴力的に感じられる面を抱えているようで

す。私としては、出来る限りそのような教会の暴力性を排していきたいと思っていますが、そのた

めには教会の中に対話的な関係が保障されなければならないと思っています。他者に耳を傾け、学

び、変り合い、共に生きる道を模索したいと思います。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。昨日、今日、明日と沖縄からキャ

ラバンを迎えて神奈川教区の三つの教会で集会がある。自分は体調の関係で行けそうにない。昨年

夏に沖縄に行った仲間でうねりの会を作り活動してきたが、前のキャラバンの時には熱していて全

部の集会に参加するメンバーが多かったが、今回はうねりの会のメンバーも全部参加する人は少な

い。今アメリカがまたイラク攻撃という戦争を起こそうとしているときに、沖縄の人たちは体を張

って反対運動をし、中にはイラクにまで行って平和を訴える市民運動に参加している者もいる。先

日米軍に接収されていた所が返還されるニュースが入った。沖縄の人たちが米軍基地と向かい合い

ながら平和を求めているこの時に、何故という疑問が浮かぶ。沖縄を訪ねた時、自分の場所で沖縄

の問題を担って欲しいと、沖縄の人から言われたが、沖縄の人たちの熱心さと私たちとの間には温

度差があるように思う。どうつながっていくのか、その道を模索したいと切に祈っている。

 また、別の方からの発言がありました。朝日新聞からの意識調査を電話で受けたことを発言して

くれました。アンケートの問いの中に、イラクアメリカが戦争をしかけるのは反対と答えたが、

国連が賛成の決議を出したら、日本が参加するのには、賛成と答えてしまった。感覚的に答えてし

まったが、平和ボケしていて、もっと憲法をよく知っておかなければならないし、日本の国が置か

れている環境を知らなさ過ぎると反省した。



          「あらしの信仰」(『ルターの日々のみことば』より)

 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあ がって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
                                マタイ8:26

 この聖句は、わたしたちに信頼の手本と、信頼がない手本を示しています。ここで、弟子たちの

心にどのような感情が生じたかを知るために、彼らの体験について思いめぐらしてみましょう。ま

ず、彼らがキリストとともに舟はいった時、すべてはおだやかで、特に変わったものを感じません

でした。その時、だれかがあなたの信頼は確かですか、と聞いたら「しかり」、と答えたのでしょ

う。しかし、彼らは、実のところ、水面の静けさと嵐のないことに信頼しているのであって、彼ら

の信仰は見えるものに基礎をおいていたということに気づいていなかったのです。ところが、嵐が

起こり、波が舟を洗いますと、信仰はくずれました。彼らがたよっていた平和と静けさは過ぎ去っ

たからです。このようにして、彼らの信仰は周囲の平和と静けさとともに消え失せ、絶望だけが魂

をおおいました。

 そして、絶望はどのように影響したのでしょうか。それは、五感で感じるもの以外を認めさせな

いようにしました。もう、いのちも安全も感ぜず、ただ舟の上でくだける波と、危険と死をきたら

せる海だけを見させたのです。こうして、彼らは危険のみを意識し、それを見つめて、ほかのこと

を考えませんでしたから、心は、悩みと、おそれと、そののきでいっぱいでした。嵐を感じ、見つ

めれば見つめるほど、なやみと死に強く囲まれるのでした。

 しかし、もし彼らの心にまことの信仰があったとすれば、暴風雨と、波と、水は、たちまち、心

から吹きあらわれ、彼らの目の前には、嵐の代わりに、みことばに約束されている神の恵みと力が

現われたにちがいありません。
                             1525年の説教から