なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(439)

船越通信、№439  2019年12月8日 北村慈郎

・   1日の日曜日はアドベント第一主日で、講壇前のローソクに一つめの灯がともりました。礼拝後何時ものように残れる人でお茶を飲みながら懇談の時を持ち、その後散会しました。私は次週の準備をし、午後1時過ぎに船越教会から鶴巻に帰りました。

・   3日火曜日は鶴巻からお昼ごろ船越教会に着き、午後に予定していた温水器設置工事に対応しました。午後1時少し前に工事担当者が二人で来て、約2時間の工事を終了して引き揚げて行きました。工事担当者からは、冬場は配管が、寒さが厳しくなると壊れることもあるそうで、お風呂に必ず水をためておくようにと言われました。給湯器が壊れて、末端の蛇口からお湯が出なくなって、ここ一か月間ほど冬場の冷たい水道水で食器洗いや洗面をしていましたが、これからはまた給湯器の恩恵を受けることができます。快適な生活に慣れてしまっていますと、蛇口からお湯が出ないということだけでもストレスになります。私の世代はある時期まで給湯器のない生活をしていますから、温水が必要なときには、やかんや鍋でお湯を沸かし、そのお湯と水道水を混ぜていました。ですから、給湯器のない生活もできないわけではありませんが、生活の利便の逆戻りにはなかなか体がついていかないものです。

・   3日は第一火曜日でしたので、午後6時から蒔田教会教育館で常置委員会がありました。午後4時半ごろまで船越教会にいて、12月中旬に発送予定の支援会通信第24号に同封する書類の準備をし、その後蒔田教会に行き、常置委員会に出席しました。この日の常置委員会では1名の按手礼志願者の面接がありました。按手礼は教区総会で承認された上で、教区総会で執行されます。常置委員会の面接は、志願者の按手礼執行の件として教区総会議案にするかどうかを、志願者の所信表明を聞き、質疑応答の上で決めるためのものです。常置委員会ではこの方の按手礼志願を承認しましたが、所信表明と質疑応答の中で、私も志願者の「神奈川教区の形成基本方針で他を切り捨てないで対話を大切にするという姿勢には共感しているが、それも信仰告白と教憲教規による一致という前提の上に成り立つ。聖餐は洗礼を受けた者が配餐に与かれるのであって、洗礼を受けていない者は与ることが出来ない」という考え方に対して、一言意見を述べさせてもらいました。「信仰告白と教憲教規を教団の教会の一致の前提にする考え方と思われるが、私は教団に属する教会の一致は、歴史的にみると、国家の強制による1941年合同にあると考える。41年合同が教団のアイデンティティーであって、信仰告白と教憲教規ではないと思う。また、聖餐については、いわゆる非受洗者に開かれた聖餐か、閉じられた聖餐かという問題以前に、戦時下の教団の教会で行われた聖餐は戦時下の教団教会の戦争協力と結びついていたわけで、戦後の教団の教会が行ってきている聖餐もその問題を克服しているとは思われない」という主旨の発言をさせてもらいました。またこの日の常置委員会では、先日行われた「合同」50年集会の報告があり、その報告を巡ってこの集会に対する意見が一常置委員から述べられました。それは、「『合同のとらえなおし』の課題は、ヤマトの我々の加害性を問うことにあると思われるが、そのことを問題としているはずの『合同』50年集会に「沖縄を味わう」ということで、沖縄の食べ物や歌を入れたのには違和感を覚えた。私はこの集会に参加したくなかったが、講師の話だけは聞こうと参加した」という主旨の発言でした。以前にこの船越通信にも書きましたように、「合同」50年集会には、初めから合同50年に当たり、合同の実質化を目指すことと沖縄に親しむという異なる二つのコンセプトが内在していました。「合同」50年集会が集会実行委員会と沖縄交流委員会との共催で行われたためです。私も集会実行委員の一人として責任を痛感しています。この発言を巡って、三役の一人からは、神奈川教区における「合同のとらえなおし」の課題についての歴史に触れて、大分前には神奈川教区はこの課題を積極的に担っていたが、ある時期からそうでなくなり、この7,8年沖縄交流委員会で「交流を探る旅」を続ける中で、その旅に参加した信徒が積極的に活動するようになってきたのが現状であることをご理解いただきたいという主旨の発言もありました。また、この批判的な発言によって、「合同」50年集会の食事や歌を熱心に準備してくれた人たちを傷つけないかという危惧を持たれた方もいましたが、批判は批判として受け止めて、私自身は今後の活動に生かしていけたらと思いました。

・   4日(水)は私の78歳の誕生日でした。この日アフガニスタンで医師として働きつつ、灌漑事業を展開してこられた73歳の中村哲さんが襲撃されて、命を落としたというニュースが入ってきました。びっくりしました。あれほど現地の人々の中に入って、現地の多くの人々からも喜ばれる働きを長年積み重ねて来られた中村哲さんのような人でも、襲撃されて殺されるということが起きたわけです。ニュースによれば、あるグループが中村さんを襲撃するということうを現地警察は掴んでいて、中村さんにも一か月前に知らせてあったということです。とすれば、中村さんは自分が襲撃されるかも知れないという危険性を十分認識しつつ、現地で活動していたことになります。すごい人です。それにしても世界の紛争地の多く、特にアフガニスタンは、歴史的にはイギリス、旧ソ連アメリカの干渉が原因で、複雑な内部対立が派生し、中村哲さんを支えるペシャワール会のような人権と平和を大切にする活動も、その抗争の渦に巻き込まれる可能性は否定できません。今回そのことが起きたのだと思われます。中村哲さんのなさった働きが今後継承されるためには、どうしたらよいか。模索しながらペシャワールの会を支えていけたらと思っています。