なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(364)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(364)復刻版を掲載します。2006年9月のものです。


         黙想と祈りの夕べ通信(364[-51]2006・9.17発行)復刻版


 人が老い病むことがどういうことなのか、単身の高齢者の方や重い病気の方をお訪ねしたり見舞ったり

する度に考えさせられます。まだ私たち日本の社会では、家族がサポートしている場合が多いですし、友

人や近所の方がサポートしている場合にも、当事者の後見人制度ができて、経済的に豊かな人は後見人を

選び、お金を払って介護の人を雇うことができるかもしれません。しかし、それほど十分に経済的に恵ま

れていない人は、厳しいことが多いのではないでしょうか。現在の社会は、個人と国家・自治体が直接対

峙し、両者の間に介在する中間的なコミュニティーが、家族親族をはじめ地域の絆まで希薄化していま

す。その傾向がますます強くなっていくように思われます。公的制度でももれていく隙間のような問題が

あるのではないでしょうか。人間と人間の絆は制度では満たすことのできない領域なのでしょう。個が分

散されていく現代にあって、個と個を繋ぐ小さなコミュニティーの形成が急務ではないでしょうか。教会

の課題の一つがここにあるように思えてなりません。単身者の高齢者や重病の方を訪ね見舞うたびに、私

はそのことを強く思わされています。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。今牧師が話したことと共通する問題を私

も考えていた。キリストが人々を癒されたということを思う。日々の生活の中で困っている問題を教会が

解決してくれるという面があった。人々がイエスのところに来たのもそうだ。現在は社会福祉は公的制度

が担っており、困っている人はそちらに行く。教会に誘おうとしても、モチベイションが起らない。国の

単位でキリスト教国は素晴らしいということであれば、教会に来てくれるかも知れない。しかし、現実の

キリスト教国であるアメリカやイギリスが素晴らしいキリスト教国だとは思えない。かと言って、この自

分の生き方を見て、教会に来てくれるかというと、どうもそうではない。言っていることとやっているこ

とは違うではないかと言われてしまう。だから、伝道ができない。その思いは持っていて、また事実友人

にも教会に来ないかと勧めているが、自分の中に迫力がない。

 また、別の方からの発言がありました。今二人の話とイエスの良きサマリア人の譬えが重なる。祭司と

レビ人は傷ついた旅人の脇を通り抜けて行った。彼らはイエスの出現前の人であると思う。治療費を出し

助けたサマリア人、助けられた旅人は、その後の生き方は変わったのだろうか。それとも余り変わらな

かったのだろうか。私にはすごく興味がある。イエスサマリア人もそうなのだが、傷つき倒れてその人

を助けようとして、普段は出ないエネルギーを引き出されたと思う。痛みを持った人との出会いが人間の

関係をそういうものにするような気がする。お二人が話された教会のシステム的なものもそうだが、現実

に痛みをもった人との出会いによって、不思議な力が引き出されるということを信じている。一対一の関

係から力が引き出されるのではないだろうか。老人、障がい者介護を規則に縛られないでやっている人も

いる。私も知的障がい者の作業所の昼食づくりのボランティアを週一回続けているが、「おいしかった

よー」と言われると、嬉しくなり継続の力が引き出されている。そういう相互に力が引き出される人間関

係の豊かさを大切にしていきたい。なかなか出来ないかもしれないが、そういう人間関係を通して偏見、

差別から自由になっていけたらと思う。