なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(148)

船越通信癸隠苅検 。横娃隠看2月23日               

・16日の日曜日も、2週続けて雪の日曜日になりました。それでも前回とは違い、8名の礼拝出

席者があり、共に礼拝を捧げることができました。

・この週は、20日(木)に聖書研究会がありました。ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節

を扱いました。出席者は私を入れて3名でした。このガラテヤの個所はパウロの信仰義認のテーゼ

が書かれていて、「ローマの信徒への手紙3章21~31節と同様に、パウロの思想の中核を集約

的に述べる代表的箇所となっている」ところです。この部分に述べられているパウロの神学的確信

は、「人は律法によらず、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と要約することができ

ます。回心以前のパウロは律法を厳格に守ることによって神の前に義を得ようとし、「律法の義に

ついては責められるところがなかった」と誇っていました(ピリ3:9)。しかし、キリストの啓示

を受けて回心したパウロは生き方を180度転換して、律法の業によって自分の義を立てる道を断念

し、キリストへの信仰によって、「不敬虔な者を義とする」(ロマ2:23)神の義(1:17;3:21)を

受けているのです。キリストを信じる者の実存は、十字架に架けられて死に、三日目に甦ったキリ

スト(1コリ15:3-4)とひとつとなり、「キリストと共に死に、キリストと共に甦り」(ロマ6:3-

9)、神に仕え、神のために生きる(6:10)ということを述べています。ここから、ガラ2:20aの

「もはや私が生きているのではなく、私のうちにキリストが生きているのである」という発言が生

まれてきます(ピリ1:21も参照)。キリストにあって人間的な事柄を誇ったり(ガラ6:12-13)、

自分の義を立てようとする(ピリ3:9)古い自分が死に、臨在するキリストの霊(ロマ8:10,15;2

コリ13:5)によって導かれ、神に仕える新しい自分が生きているのであると。さらに、同じことを

パウロは20節後半で言い換えて、「今私はからだにあって生きているが、私を愛し、私のために御

自分を捧げられた方への信仰によって生きているのである」と述べています。

・このようなパウロの信仰的な実存についての記述を改めて学びながら、私自身はパウロもまた捨

て難いという思いを持ちました。この時の聖書研究会でも一人の方がローマの信徒への手紙をもう

一度読んでみたいという発言をしていました。実は、今私はジョルジュ・アガンベンの『残りの

時』という本を船越の行き帰りに電車の中で読んでいます。まだ途中までしか読んでいませんが、

その内容は、私にはなかなか難解のところもありますが、ひきつけられるところも多く、電車の行

き帰りでの読書が終ったら、改めて読み直したいと思っています。この本の副題は、「パウロ

義」となっていますが、訳者あとがきによれば、原著の副題を直訳すると、「『ローマ人への手

紙』註解」となると記されています。私がひきつけられているのは、アガンベンがこの本の中で繰

り返し触れている「メシアニズム」についてです。この本のカバーにある解説の文章にこういう一

節があります。「パウロの『召命』と名付けたこの次元の経験は、遠くヘーゲル止揚に、マルク

スの階級に、そしてデリダ差延にも共鳴板を見いだす。ベンヤミンとともに著者が試みる、『メ

シアニズム』の再生は、世俗化と啓蒙による近代という精神史の常識を揺るがす起爆力をもち、現

代の生存と政治の命運に知られざる視野を提供する」。この本の読みかけ中ということもあって、

パウロの再読に誘われているのかも知れません。

・22日(土)は教区総会がありました。この総会で秋の教団総会に神奈川教区として提出する議

案として、「北村慈郎教師の『免職処分』を撤回し、教団内に聖餐の在り方について慎重かつ十分

な議論をする場の設置を求める件」を出しました。結果出席者129名中85名の賛成多数で可決

されました。この議案の審議の中では、賛否両論が述べられましたが、審議を打ち切り採決に入っ

たために、発言出来なかった方から、その方が予定した発言の内容(この議案についての意見)を

書いたメモを、私は帰りがけにいただきました。それをここに転載しておきます。

・「初めに私の立場を表明しておきないと思います。私は、聖餐についての神学的理解、また教

憲・教規の解釈からいえば、フリー聖餐には反対の立場であります。

 しかし、であります。その処分、またそこに至る経過に、幾つかの疑念を抱かざるを得ないので

あります。そのような理由から、この提案に賛意を表したく、考えております。

 その疑念とは、

―菠に至る過程について、その経過説明が北村先生と教団執行部では、初めより食い違いがみ

られる、大きな相違があり、その経緯が判りづらく不透明である。

戒規施行にあたっては、戒告から、停職、免職へと段階を踏むべきであり、一跳びに最も重い

免職処分に決めたことに理解に苦しむ。決定する前にもっと熟慮すべきでなかったのか。

フリー聖餐は、牧師といえども北村先生ひとりでできるものではない。当時牧されていた紅葉

坂教会の承認のもとに行ったものと考える。それならば紅葉坂教会の責任はどうなるのか。

づ?唆偽茲鯡技襪靴董頭越しに処分を行ったのは、その教団運営の仕方に問題があったのでは

ないか。なぜなら、その結果当教区である我々は、教区の問題として、このように時間と労力を費

やしている。問題の解決にはならず、新たな紛争を増やした結果になった。

 以上述べましたように、この件には透明性と公平性が欠け、問題性を残しています。私は次の点

を強調したい。たとえ、目的が正しくとも、そこに至る過程に、また手段に問題があれば、その正

しさは損ないます。宗教団体なら、なおさらです。なぜなら、その宗教団体が持つ良心が問われる

からです。その意味から、北村先生に対する処分は白紙に戻すべきであると考え、聖餐に対する、

その主義、主張に違いはありますが、その立場を越えて、この提案に賛成いたします。     

    以上

・この方の良識が教団執行部の方々にあれば、私の問題は起こらなかったでしょう。私の戒規免職

問題にかける労力と時間を考えると、残念でなりません。