なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(346)復刻版

 黙想と祈りの夕べ通信(356)復刻版を掲載します。2006年5月のものです。

 昨日の日曜日は礼拝後、午後紅葉坂教会で行われた公開学習会「構造的差別を克服するために~ヤマト

とオキナワの関係~」に参加し、夜は東京で行われた「聖餐を考える会」に参加し、鶴巻に帰ったのは午

後10時半ごろでした。忙しい一日でした。昼間は比較的暖かでしたが、夜は風も強く寒さが厳しくなりま

した。鶴巻の自宅についてホットしました。

 みなさんも、お体大切にこの寒さを乗り切ってください。 

 

       黙想と祈りの夕べ通信(346[-33]2006・5.14発行)復刻版


 昨日神奈川教区の常置委員会がありました。そこで担任教師及び准允志願者6名の面接がありました。

今回の面接はいつもとは違って、大変緊張感のあるそれぞれの思いが比較的よく出された面接だったと思

います。ともしますと、形式的になり勝ちなのですが、今回はそうではありませんでした。面接者の中に

障がいを負われたTさんがいらして、Tさんの発言が常置委員会の場をそのように導いたという面があった

のかも知れません。常置委員の一人でご自身も障がいを負っておたれる方が、面接者に次のような質問を

しました。「障がい者差別をどう思うか。そして障がい者差別にどのように向かい合い、どのようにした

いと考えているのか」お聞きしたいと。それに対してTさんの発言の中に、教会の中で障がい者がきちっ

と教会の担い手・構成員として位置づけられているかという問いかけがありました。例えば神奈川教区で

障がい者の問題は社会福祉小委員会が担当委員会になっています。Tさんは「福祉」というのは、援

助・支援というニュアンスがあって、福祉を受ける障がい者は支援者と対等な関係には置かれていないの

ではないか。障がい者の問題を担う委員会であるとすれば、社会福祉小委員会ではなく障がい者(差別)

問題委員会とすべきではないか、と言うのです。なるほどと思わされました。また、Tさんは障がい者

女性も教会や教区教団の中で健常者の男性と同じように教会や教区教団の主体として扱われているだろう

かと問われました。むしろ保護すべき対象と見られてはいないだろうか。障がい者や女性は、変な気づか

いを受けるのではなく、対等な関係性において共に生きる主体であると。その発言は大変説得力がありま

した。

 上記の私の発言に続いて、一人の方から、自分の生活の中で神は愛なりという経験をしているとの発言

がありました。続いて別の方から以下の発言がありました。牧師から話が出たが私も同じTさんの事を思

っていた。性差別問題特別委員会から常置委員会に陪席をしてTさんの文章を最近の『福音と世界』で読

んでいたし、以前紅葉坂教会にもいらして話をしたことがあったので身近に感じ、今度神奈川教区に担任

教師として働かれることで交わりを持てることを嬉しく思う。その彼女の発言を伺っていて大変力づけら

れ、感動した。それは、障がい、差別について彼女自身の言葉から当事者でなければ出てこないと思える

的確な判断と指摘にである。たまたま、先日の祈祷会でKさんのお話にも同じ経験をした。声帯の不具合

により聖歌隊で歌えない経験から賛美ができる恵みについて話された。一つの障がいが現れる事でお二人

とも大変な努力をしている事を知らされ、経験から出てくる言葉の説得力と個性が生かされている事を感

じた。では自分には課題があるのか考えていた。障碍を持った子どものお母さんとの出会いから、この事

が私の課題であると思ってやってきた。最近はうねりの会に加わり、国会前座り込みに参加し、辺野古

こと基地のことに、がんばれ、足りないぞ、と何処からか声がかかって突き動かされているような気がし

ている。自分自身戦争で父を失い、その経験から戦争は絶対に許せないとの強い思いからだと気付く。イ

エスの十字架を思うと、一人一人に自分の十字架、テーマが与えられていて、その人なりのかけがえのな

さで動いているように思う。一人一人違ったテーマを担っていきながら、その自分の場から発せられる言

葉にお互いに励まされながら、共に歩んでいきたい。