なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信復刻版(152)

 今日は「黙想と祈りの夕べ通信(152)」を掲載します。

 先週の土曜日、本を整理していて読みかけて放っておいた須原一秀著『自死という生き方』を見つけ、

続きを読み始めたら止まらなくなり、説教準備が遅れましたが、最後まで読了しました。この本の中にキ

ュープラ・ロスのことが書かれていました。キリスト者であったキュープラ・ロスは末期癌患者などの死

の受容に至る5段階説で有名な人ですが、晩年自らの死に至る過程で、神をヒットラーに同定して呪った

ことに触れています。つまりキュープラ・ロスはキリスト教を信じていた人だが、その信仰によって晩年

平安であったかと言えば、そうではなかったというのです。須原はそのようなキュープラ・ロスを批判し

ているわけではないと思いますが、老いや死に対して自死という自己決定を自分は選ぶというのです。切

腹という自死の日本の文化を肯定し、日常を全く健康で過ごせていた65歳(67歳?)に須原は自説に即し

自死しました。そのことによって須原は、現代の高齢化社会の中で人は老いや死に対してただ受け身の

姿勢だけでよいものだろうか、という問いを投げかけているように思います。

 私が牧師になって最初に働いた教会で大変お世話になり、私自身先輩牧師の中では最も尊敬してきたF

先生ご夫妻を10年前に訪ねた時のことが、下記の通信に書かれています。認知症がすすみ訪ねて行った私

たち夫婦のことも全く知らないかのような行動をされたF先生ですが、私は先生を尊敬する気持ちは変わ

りませんでした。

 また、下記通信の「日々のみことば」で引用していますルターの言葉には、私の「神関係=隣人関係」

(神関係に於いて隣人関係を問い、隣人関係に於いて神関係を問う)信仰理解に通ずる内容が記されてい

るように思われます。



         黙想と祈りの夕べ通信復刻版(152[-47]2002.8.25発行)

 1月18日と25日の2回の日曜日の「黙想と祈りの夕べ」はお休みをしました。そこで今回と次回の通信

は、私の夏の間に経験したことから、自由に書かせてもらいます。

 14日から23日までの夏休みは、後半20日から23日まで連れ合いと娘がO牧師やK牧師や教区の諸教会の女

性たちで計画した「合同問題を考える沖縄の旅」に参加しましたので、犬や猫や花の世話もあり、私は牧

師館で過ごしました。のんびりと一人の時間を楽しみました。前半は2日厚木の七沢に遊びました。七沢

温泉元湯玉川館という旅館に泊まりました。この七沢では私の青年時代に当教会青年会の修養会が一度行

ったことがありました。当時青年会の会長だったと思いますが、現在渋谷のM教会牧師であるUさんが企画

しました。確か講師は当時のS教会牧師のK先生をお願いして来ていただきました。主題講演をしていただ

きましたが、忘れもしません。聖書箇所はローマ人への手紙1章16-17節でした。「福音を恥としない」

というローマ人への手紙のテーマとも言える箇所です。K先生のお話は、ほとんどご自分のご子息が自転

車でした九州旅行の話でした。当時の青年会は結構論争好きが多かったですし、それなりに聖書を学ぶ姿

勢がありましたので、見事に期待を裏切られたという感じでした。七沢という場所は、私にはこの青年時

代の思い出と結びついているところでした。2日目に私は一人で山歩きを試みて見ました。厚木観光ガイ

ドに出ていました「白山巡礼峠ハイキングコース」です。途中道を間違えて県立七沢森林公園に出てしま

いましたが、戻ってこのハイキングコースを歩き通しました。二ヶ所急な階段があるところがあり、息が

上がってしまいましたが、休み休み何とか最後まで行けました。午前10時半頃に登りはじめて、最終地点

飯山観音に着いたのが午後2時過ぎでした。全身汗びっしょりになりましたので、飯山温泉の湯で汗を

流して、一休みして帰って来ました。

 前々から丹沢の山を歩いてみたいと思っていましたが、今回その端緒を作れましたので、私としては大

変満足しています。翌日からだの節々が痛くなるのではと心配していましたが、朝起きてもどこも痛いと

ころがありませんでしたので、少し自信がもてました。その日は日曜日でしたが、夏休み中でもありまし

たので、私は神学校を出て最初に赴任しました東京足立区にありますA教会の礼拝に連れ合いと一緒に出

席し、私たちが大変お世話になりましたF先生とお連れ合いのMさんをお見舞いしてきました。以前のこの

通信でも書いたことがありますが、その時はMさんの方が頭ははっきりしていました。今回は何度か危機

的な状態を経ておられたこともあったのでしょうが、先生同様認知症が進んでいて、お二人とも私たちが

誰であるのか、お分かりにならなかったようです。寝たきりのMさんとからだは元気な先生が併設された

病院と老健施設にそれぞれ入っています。先生は礼拝にも教会員の方の付き添いで毎日曜日出席されてい

るとのことで、この日も礼拝でもお目にかかりました。礼拝後、Mさんを病室に見舞い、少しゆっくり話

したいと思い、老健施設の先生の部屋をお訪ねしました。すると、先生は、礼拝から戻り昼食をとった後

で、自分の部屋に入って、礼拝に着ていった衣服や所持品の整理をしていたのでしょう、今は整理で忙し

いので、娘のところ(近くの先生ご夫妻が住んでいるアパート。そこに娘さんがいると思って。しかしア

パートには誰もいません)に行ってくださいと言って、私たちを部屋から追うようにして、ご自分のこと

をされました。仕方ありませんでしたので、一緒に行ったA教会の方と食事をして帰って来ました。でも

私も連れ合いも、たとえ先生ご夫妻は私たちのことを忘れても、お二人にお会いすることが出来ただけで

よかったと思いました。


         「善きわざ」(『ルターの日々のみことば』より)

 「心をつくし、・・・・主なるあなたの神を愛せよ。また、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ  よ」  
                             ルカ10:27

 ここに善きわざが、ひとまとめにして語られています。わたしたちの天の父がわたしたちになしてくだ

さり、今日もなし続けておられるのと同じように、わたしたちもお互いの間でなさねばなりません。わた

したちにとって、神を喜ばせるためのわざはなにも必要としませんが、隣人のためにそれが必要であると

いうことは、再々言われてきたことです。わたしたちのわざによって神を更に強く、更に富ませることは

できませんが、隣人を強く富ませることはできます。隣人はわたしたちのわざを必要としていますから、

それは隣人に向けるべきであって、神に向けるべきではありません。あなたがたはすでにこのことについ

て、しばしば聞いてきましたが、なおもそれはあなたがたの耳に響いているのです。願わくは善きわざが

あなたがたの手を通り、わざとなってあらわれてくるように。

 信仰は神にのみ帰せられます。信仰は神のみがなすことができるわざを受けとります。そして神のこれ

らのわざは、信仰によってのみ受けいれられます。その時、わたしたちは隣人のために忙しくなり、わた

したちのわざは、隣人に役立つようにと向けられます。

 わたしの信仰は内面と上方にむけて神のもとへとたずさえてゆくべきものです。一方、わたしのわざは

外側と下方にむけて、隣人のためになされてゆくべきです。
 
                            三位一体後第四主日説教