なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

黙想と祈りの夕べ通信(197)復刻版

 今日は、「黙想と祈りの夕べ通信(197)」復刻版を掲載します。これも10年くらい前のもの

です。    

       黙想と祈りの夕べ通信(197-40]2003.7.6発行)復刻版

 先日私が神学校を出て最初に赴任しましたA教会の役員から、9月に伝道集会を開くので、私に講

師になって欲しいという電話がありました。9月の第2土曜日でしたので引き受けました。A教会は

今は無牧の状態です。私が牧師として働いたのは1969年4月から1974年3月までの5年間でした。199

2年頃だったと思いますが、青山学院高等学校の宗教主任をされていたF先生が教会の活動に提供

されていた自宅の土地を教会に寄付し、法人化してその場所に3階建ての会堂と牧師館ができまし

た。私がA教会を辞任してから、F先生は私に代わる牧師を迎えずに、ご自分でずっと無給で牧会

され、教会で資金をためておいた分と、先生を支援される数名の方の多額な献金によって、対外的

献金を募らずに、会堂を建築し、その後ご自分は退任されて、新しい牧師を迎えました。その牧

師も数年で辞任し、二人目の牧師も今年3月に辞任されました。規模としてはそれほど小さくはあ

りませんが、困難と課題を抱えて、今は信徒だけで教会を支えています。4月からA教会の他に、当

神奈川教区にあります二つの教会の牧師就任式を常置委員である私に依頼があり、引き受けまし

た。一つは、既に就任式を終えていますが、N教会です。K牧師がそう多くはない信徒の方々と立地

条件のよい場所に新しく新会堂を建築するために、並々ならぬ努力を傾けています。もう一つは、

7月27日に就任式のありますH教会です。農村伝道神学校を卒業したS伝道師の就任式です。H教会は

1970年頃に一つの教会から別れて出来た教会ですが、役員の方は若いS伝道師に期待しています。

私たちの教会は比較的人数も多く、いろいろな面で恵まれていますが、小さな規模の教会がそれぞ

れの場所で宣教の働きを担って労苦しておられることを覚えて、祈りの課題に加えていただければ

幸いです。

 上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。昨日ろばと野草の会主催で開かれ

た映画会で「地球交響曲」という映画を観た。私は先週秋田に行き、ブナの森を散策した。この映

画では4人の人が自然との共存から、自然の中から大きな見えないもの(神?)の声を聞くという

テーマが伝わって来た。実際自分もブナの森を散策して、自然は人を癒してくれることを感じた。

秋田から帰ってくると、鉄筋のビルやアスファルトの道路という日常である。私も草花を育ててい

る中で、そのような自然を通して神を知ることを共感できるが、もう一つ、人と人とのつながりの

中で神の声を聞くことができるのではと思う。自然からパワーをもらえるだけでなく、人との関わ

りからもパワーをもらっているのではないかと思う。その意味で、自然も大切だが、人とのつなが

りも大切である。これからも人とのつながりの中で神の声を聞いていきたいと思う。


         「神による聖化」(『ルターの日々のみことば』より)

 主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおら 
 れない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰に

 よって、救いを得させようとされたからである。

                           第二テサロニケ2:13、

 それゆえわたしたちは、みことばを守り、熱心にあかしする人をきよい人とみなし、キリストと

ともに語らなければなりません。とくに彼らが貧しく弱い人であって、特別に聖徒としての様子を

しておらず、迫害と試練を受けている場合はそうです。彼らが聖なる者であるとか、正しい者であ

るとか、ないとか、額に決して書かれていないからです。しかしみことばが実を結んで、そのため

に人が苦しみを受けていることなどは見ることができ、その場合、彼らが生ける聖徒であることが

わかります。

 ところが偽善者は見せかけのけんそんで次のように言います。神はどんな人にも自分を聖徒と呼

ぶほどのごうまんを禁じられている。わたしたちはすべて罪人ではないか。このようなことばに

は、次のように答えるでしょう。このような考えは、聖徒といえば自分でその地位を獲得し、それ

に値するようになったかのように力あるわざについて考え、天の聖徒たちを考える古風な錯覚から

生じているのであると。しかし、キリストのまことの聖徒とは良い強い罪人であり、主の祈りを恥

じることなく祈れる聖徒であります。「み名があがめられますように、み国がきますように。わた

したちの負債をおゆるしください」。このように祈ることにより、わたしたちは自分のうちに神の

み名が十分にあがめられておらず、み国が来ておらず、みこころがなされていないことを告白して

いるのです。しかも彼らが聖なる者と呼ばれるのは、罪がないからではなく、わざによってきよめ

られたからでもありません。反対に、彼ら自身は罪人であって、彼らのすべての働きによって罪に

定められています。彼らは自分のものではないきよさによって聖徒とされています。

                     
                             ヨハネ福音書16-20章の講解