今日は、10年前のものになりますが、「黙想と祈りの夕べ通信(196)」復刻版を掲載します。その
ころの痛みと怒りが思い起こされます。
黙想と祈りの夕べ通信(196[-39]2003.6.29発行)復刻版
6月21日(土)に清水ヶ丘教会で神奈川教区総会が開かれました。この総会に私は、議員提案の「沖縄
教区常置委員会声明に賛同の意を表する件」という議案の提案者として臨みました。議案本文と提案理由
は議長団によって紹介されました。私は補足説明に立ち、神奈川教区の宣教方策からしても、また対話を
求めて「無視」された沖縄教区の痛みを少しでも受けとめて、今後も沖縄教区との対話と連帯を大切にし
ていきたいために、是非この議案への賛同を議場に求めました。残念ながら過半数68名のところ、賛成66
名ということでこの議案は否決されました。もう一つの、議員提案議案として「『性差別問題特別委員
会』の廃止に抗議し、再設置を求める件」が諮られましたが、これも過半数63名のところ、賛成62名で否
決されてしまいました。総会が終わって、受付のところで、この二つの議案について、最後まで必要に議
長団に確認を求めていたSさんに会いました。私のいつもの癖で、その時私は笑う必要のないに照れ笑い
のように笑っていたのでしょう。Sさんは、なぜ笑うのか。この教区総会は(上記二つの議案を否決した
ことにおいて)歴史的な総会じゃないですか、と私に言いました。確かにそうです。今度の神奈川教区総
会は、沖縄教区を実質的に切り捨てた第33/18回教団総会と同じ決断をしたことになります。しばらくし
てから、そのことの重さを私は感じるようになりました。そして、今回の神奈川教区総会について、私な
りに総括をしておかなければと思うようになりました。私は、現状分析やその判断について以前から少し
甘いところがあります。どうでもいいではないかという私の中にあるしらけが、詰めを甘くしているので
す。名古屋時代には、その私の欠点をいつも厳しく指摘してくれた人がいました。彼は私のことを「シテ
ィボーイ」と言いました。教区・教団に責任的に関わる以上、最善を尽くさなければならないと、私は今
回Sさんの姿勢がら思わされました。
上記の私の発言に続いて、一人の方からの発言がありました。私も教区総会のことになるが、今回はじ
めて教区総会を傍聴した。この4月から教区の性差別問題特別委員会の委員に加わり、上記の「再設置」
をめざす議案を出すので、見届けたいと思い出席した。去年の夏に教区の数名の女性と沖縄に行って、そ
の後「うねりの会」を自主的に作って活動してきたが、第33/18回教団総会で廃案、否決された沖縄と性
差別に関係する二つの議案が今回の教区総会に出ているので、私は当然彼女らも教区総会に来ていると思
っていたが、来ていなかった。総会では二つの議案は否決された。そのことを私は本当に残念だが、この
否決にはある意味があると思わされた。もしこの総会で二つの議案が可決されていたとしたら、返って緊
張感がゆるんだかも知れないからである。否決されることによって、今後も緊張感を持ち、学び合ってい
く課題が与えられたと思う。性差別の問題は、教区では委員会を通じて、それぞれの場所で理解を深め、
問題を担う人を増やしていけるように努めていきたい。
『福音と世界』7月号に、《人間の盾》として米軍攻撃下のバクダットに踏みとどまり続けたバプテス
ト連盟の木村公一さんが「パックス・アメリカーナ(アメリカの平和)とキリストの平和」という文章を
書いています。この文章は、同氏の『人間の盾』(新教コイノーニア19)にも収められています。上記
論文の最後のところに、木村さんはこのように書いています。
「…いま私たちに求められているのは、歴史的な現実の困難や挫折を越えて微動だもしない神の平和へ
の意志に与って、特定の集団の陰謀によって引き起こされる戦争を止める勇気である。戦争は悪魔が引き
起こすのではなく、私利をむさぼる人々の『戦争への意志』によって起こされる。それを押し止めるのは
私たちの平和への意志だけなのである」。
「罪をおおうもの」(『ルターの日々のみことば』より)
愛は多くの罪をおおうものである。 第一ペテロ4:8
ここで学ぶべきことは、あなたがたの隣人を、失われた羊としてたずね、あなたがたのほまれによって
その恥をおおい、あなたがたのきよさを彼の罪のおおいとして用いることです。ところで、人々がともに
集まるとき、彼らはどれほどはげしく罪にたいして戦っているかを証明しようとして、お互いをめった切
りにします。それゆえ、あなたがた男子はともに集まるとき、人々をめった切りにしてはなりません。同
じように、あなたがた婦人はともに集まるとき、他の人の罪をおおうべきであって、いやすことのできな
い傷をおわせてはなりません。またもし、あなたがたがひとつの部屋にいるふたり人のところを通り過ぎ
るならば、あなたの外套をふたりの上に投げかけてやり、戸をしめなさい。それはなぜでしょうか。それ
はあなたがたもそのようにしてほしいからです。
これこそ、キリストのなさったことです。主も、だまってわたしたちの罪をおおってくださいました。
主は、なそうとすれば、わたしたちをはじめか、足の下にふみつけることができました。しかし、それを
なさいませんでした。そこであなたがたも同じようにすべきです。おとめはその冠を娼婦にかぶせてや
り、信仰深い妻は、そのヴェールを姦淫の女に与えてやり、わたしたちのもっているすべてを、罪人をお
おう外套として用いなければなりません。それは、だれでも捜し出すべき失われた羊を持っており、どん
な婦人でも捜すべき銀貨があるからです。わたしたちの持っているすべてのものも他の人に属さなければ
なりません。
1522年の説教から