なんちゃって牧師の日記

説教要旨と牧師という職業で日々感じることを日記にしてみました。

船越通信(89)

          船越通信癸牽后 。横娃隠嫁12月30日     

・いよいよ30日の日曜日が2012年の最後の礼拝です。年末年始皆さまいかがお過ごしでしょうか。往く年来る年を思いめぐらしながら、主の導きを信じ新しい年に向かって歩んでいきたいと願います。

・23日の礼拝はクリスマスの礼拝でした。クランツの4本のローソク全てに灯が入りました。この日の礼拝では聖餐式も執り行われました。礼拝には13名の方々の出席がありました。次の日が24日で夜にはキャンドルサーヴィスと祝会がありますので、今年はクリスマス礼拝とキャンドルサーヴィスが23日の日曜日と24日の月曜日と二日続きになりました。23日の礼拝後には、12月2日の日曜日に行いましたテーマ話し合いのまとめを受けて、その時には参加者が少なく、全体の話し合いが出来ませんでしたので、改めて来年2月か3月に、出来るだけ多くの人が集まれる日に話し合いをして、今後の船越教会の方向性を確認したい旨、私の方から発言させてもらいました。その際テーマ話し合いの全体をまとめた小冊子の記録を12月2日に来れなかった人に配布しました。話し合いは2月の第一日曜日の礼拝後に行うことになりました。この日はクリスマス礼拝でしたが、特に礼拝後には集会を予定していませんでしたが、Hさんが準備して下さった昼食を共にし、その後キャンドルサーヴィス及び祝会の準備をして散会しました。私はこの日は鶴巻に帰り、24日(月)午後4時までに船越に来ることにしました。

・23日(日)は早めに鶴巻に到着し、少し書斎を整理してから、キャンドルサーヴィスのお話し(説教)をまとめようとしました。鶴巻の私の書斎は6畳弱の広さで、扉の部分と半畳ほどのクローク以外の壁には書棚とスチール製の棚が置かれ、そこに二重・三重に本が並べてあります。それでも私の蔵書の半分で、他の半分は船越教会の牧師館の書斎にあります。整理をはじめましたら、一つのスチール製の棚の柱が、上に本を重ねてあったものですから、その重さに耐えられず曲がりかけました。あわててその棚の本を全部出し、棚を取り除きました。その整理に、夕食を挟んで午後8時頃までかかってしまいました。それからキャンドルサーヴィスのお話しのまとめをしましたが、その日の夜は寝ましたが、24日の午前中までかかってしまいました。

・24日(月)は午後1時過ぎに鶴巻を出て、船越に向かいました。鶴巻を出ようとした時に、S・Nさんから電話をもらい、今朝緊急入院して、今晩担当になっているキャンドルサーヴィスの司会が出来なくなったのでよろしく、ということでした。びっくりしましたが、司会はこちらで何とかするから、くれぐれもお大事になさってください、と言って電話を切りました。午後3時過ぎには船越教会に着きました。教会は玄関が開いていて、オルガンの音が響いていました。キャンドルサーヴィスの奏楽をしてくれるSさんが練習をしていました。その後祝会の食事の準備に皆さんがやってきて、午後6時開始のキャンドルサーヴィスまでは、持ち寄りの料理とデザートがそろいました。キャンドルサーヴィスには小さな子どもたちが来ることになっていましたので、プロジェクトで画面に映した絵本の読み聞かせの準備もして、キャンドルサーヴィスの開始を待ちました。司会は急遽H・Aさんにお願いしました。始まる頃には、会堂がほぼ一杯になりました。子ども7人、大人30人の計37人の出席者でした。点燭はM・Wさん、A・Wさんがしてくださいました。ローソクを持ちながら、プログラムに印刷された讃美歌を歌うのは、ローソクの灯でプログラムの紙が燃えやしないかとちょっと心配でしたが、何事もなく、キャンドルサーヴィスを最後まで終えることができました。船越教会には聖歌隊がありませんので、キャンドルサーヴィスの中で歌う讃美歌はすべて会衆全体で歌います。日曜礼拝よりも数曲多い讃美歌を歌いますが、みんなでクリスマスの歌を声を合わせて歌いました。

・礼拝が終り、礼拝堂に机を四つ出して、その机にテーブルクロスをかけて、準備してあった持ち寄りの料理を机に並べ、皆さんが4組に別れて座りました。用意が出来て、ワインとウーロン茶がグラスに注がれ、参加者の最年長者のY・Oさんが乾杯の音頭をとり、I・Iさんの司会で祝会が始まりました。一人一人の自己紹介と、途中で絵本の読み聞かせがありましたが、後はそれぞれのテーブルでの自由な懇談です。最後にデザートが出て、8時半過ぎに祝会を閉じました。みんな満腹するほど食べたと思われますが、福音書の5000人の供食の物語のように、残ったものも結構ありました。それを持ち帰り様にタッパーやビニール袋に分ける方、会場の片付けと掃除する方、そして使った器を洗う方と、手早く作業が進み、9時過ぎには祝会前の状態になりました。特に食器洗いでは、I・Iさんの友人のK・Fさん、M・Wさん、A・Wさんの手早い作業には感心させられました。みなさん気持ちよく働いてくださり、今年もクリスマスの豊かな時を共有することができて嬉しく思います。ただ、S・NさんM・Nさん、Y・M人さんなど出席を予定していた方が体調を崩されたりして出席できなかったことは大変残念でした。体調の回復をお祈り致します。

・24日の夜、私は船越教会に泊り、翌日25日(火)にありましたシャワーの会(路上生活者のパトロール)に参加しました。T・SさんかS・Hさんの車を借用し、S・Hさんが用意して下さったお弁当とクリスマス用のお菓子に、毛布などを積んでパトロールに出かけました。朝8時過ぎに船越教会の前の道路で、私はT・Sさんが運転する車に乗り、衣笠まで行き、そこで何時もパトロールに私たちと一緒に行ってくださるA・Kさんを乗せ、久里浜近辺の幾つかの公園を回り、うみかぜ公園に寄り、横須賀中央の街中、公園、図書館、そして高速道路下に行き、私は逸見の駅前で降ろしてもらいました。この寒さですので、いつもいらっしゃる方とも出会うことができず、今回は3名の方しか声をかけることができませんでした。

・以下は「寿地区センターニュース」に掲載された原稿です。

      忘れられないクリスマス     北村慈郎

・ 私は1959年高校3年のクリスマスに紅葉坂教会で平賀徳造牧師から洗礼をうけました。その時が教会で祝う最初のクリスマスでした。巷では水原浩の「黒い花びら」がヒットしていて、確かその時のレコード大賞を受賞したように記憶しています。高校3年生ですから、友人たちは大学受験に没頭していた時期です。私は父親の会社倒産などがあって、大学受験はあきらめ、悶々と将来の道を模索していた頃でした。それ以来今年が53回目のクリスマスになりますが、この時のクリスマスも私にとって忘れられないクリスマスの一つです。

・しかし、何と言っても私にとって忘れられないクリスマスは、東京足立区本木町にあったセツルメント本木隣保館で祝ったクリスマスです。当時隣保館には廃品回収で生活していた通称「バタヤさん」のための聖書を学ぶ集会があり、1969年4月に足立梅田教会の牧師になってからの5年間は私が一人でその集会の責任を持っていました。その集会のクリスマス祝会で撮った一枚の写真があります。その写真には私たちの家族5人が写っていて、三番目の子は赤ちゃんですので、1973年のものだと思います。私たちの家族の他には、隣保館の職員数名と20名ほどの「バタヤさん」が写っています。この写真は迫力満点の写真で、集合写真なのですが、「バタヤさん」の顔が一人一人存在感があって、単独に写した写真を並べ合わせて一枚にしたように感じられるのです。私にとって、この「バタヤさん」と祝ったクリスマスがクリスマスの原点になっているように思います。

・それ以来、クリスマスを誰と共に祝うのかという問いが、クリスマスの度ごとに私の心に響いてきます。